ルサチマ

AA 音楽批評家:間章のルサチマのレビュー・感想・評価

AA 音楽批評家:間章(2005年製作の映画)
5.0
2回目 2022年12月10日 @アテネフランセ

数年前、映画美学校で教えていた青山真治の資料を探していたこともあり、それならば監督本人に連絡して『AA』の上映会でも企画したらどうだと言われたことがあったが、その時の自分は青山真治のもとに連絡を入れることがあまりに恐れ多く、もう少し勉強するまでは…といってそれより先に話を進めることはしなかった。今思えば恥を晒してでもダメ元で連絡を入れるくらいのことをすれば良かったのだが、かつて一度だけ見た『AA』の衝撃は途轍もなく全く太刀打ちできずに打ちひしがれた思い出ばかり記憶に残っていたせいもあり、たじろいでしまった。
今年の3月に青山真治の訃報を知って以来、色々と彼の映画を見て、テキストを読み直していたが、『AA』についてはあまりに読むべき資料が多く、間章の執筆したテキストや、そこで言及された音楽を探すだけでも一苦労だが、ベン・ワトソンによるデレク・ベイリーの評伝や、さらにインタビュアーの大里俊晴についてもガセネタを久しぶりに聴き直し、彼の書物や、彼が亡くなったときに刊行された青山真治も執筆している追悼文集『役立たずの彼方に─大里俊晴に捧ぐ』を探すなど、この映画のスタッフ(青山真治ゼミ生)の苦労の一端を少しだけ感じるだけでヘトヘトになった。『すでに老いた彼女のすべてについては語らぬために』も相当な文献の吟味を求められたと思うが、『AA』についてはより直接的にインタビューという形で取材する以上より大きな責任がスタッフ一人一人に問われたであろうことは想像に易いし、もし自分がそこにいたらと思うとゾッとする。この作品の制作にかかったであろう膨大な時間が想像され途方に暮れる。
初期映画美学校生との共闘は映画美学校が製作に携わっていない作品『phew video』や『秋聲旅日記』『海流から遠く離れて』、『名前のない森』でもスタッフやエキストラの中に青山真治の教え子の名前を確認できたし、その共闘の集大成は『東京公園』のシナリオ執筆に繋がるのだろうが、彼らの関係は生徒と教師という関係を遥かに超えたものに思えて、その信頼関係に感動さえする。
それも全てはこの7時間半に及ぶ『AA』の制作なくしてはあり得なかっただろう。これは音楽批評家である間章が活動した70年代、そして彼が亡くなって以降(80年代以降)について再び間章的な音楽や文学、演劇、政治を横断する批評の可能性について実作の演奏を交えて検討する構成となっているのだが、短い生涯とは思えぬほど豊かな批評を展開した間章を追うためにはそれだけ様々な側面から再検討する必要があり、それ故に青山真治作品史上最長の時間を有するものとなっている。

「 第1章 時代の未明から」では、様々な人物の証言によって、執筆をしていない普段の間章の様子が語られ、その人柄の輪郭を与える。

「第2章 反復する未明」では、70年代のフリージャズとそこから間章が紹介したデレク・ベイリーについての言及が多くなされるが、ここで印象的なのは語られている内容以上に間章について語る批評家やミュージシャンの人柄が際立つようなインタビュー映像となっていることだ。被写体について肩書きや名前が一切表示されない今作において、この章はテロップの代わりの人物紹介的な構成を担っている。誰がどの文体(間章に限らず、蓮實重彦や早川義夫といった名前もあがる)に影響されたかといった当時の文化的な潮流が語られる。

「第3章 非時と廃墟そして鏡」では、間章が繰り返しテキストでも使用する「廃墟」や「極北」といった間章的単語の使用について語られると同時に、間章のテクストに宿る霊性と間章の生活態度(麻薬の使用)について語られることもあり、全体の中で最も死の気配を漂わせる内容となっている。また同時に70年代の音楽批評とセクトの結びつきについての批評も言及され、批評がミュージシャンに与える影響の一旦が指摘される。ラストでの大友良英によるノイズミュージックの演奏は、間章に影響を受け、音楽の理論と実作の結びつきがどのようになされているのか一つの例として提示されるのだが、ここでの演奏には1人の観客として、大友の演奏に耳を傾けるしかない。

「第4章 僕はランチにでかける」の構成は間章によるデレク・ベイリーのインプロヴィゼーションの擁護と、セロニアスモンク的なアレンジ、ケージの何もしないことから生まれる現代音楽についての批評が主に大友良英と灰野敬二の間で語られているのだが、それぞれが音楽のあり方について異なる態度を示すが故に活発な議論がなされているかのように交互に示されるのが滅茶苦茶面白い。個人的には大友良英が今作の出演にあたり美学校生から届いた手紙の中に書かれていたという、音楽の演奏と聞き手は実は全く繋がってなくて成立してしまうという問題についての指摘が鋭くて興味深かった。

「第5章 この旅には終わりはない」ここでは前章を引き継いで、音楽の形式についての議論がより活発に行われつつ、単なる形式からそれが間章以降の世代にとって政治的にどのような意味を持つのかが語られる。間章や高柳的に、ある音楽を一方的に批判することで強い理論の主張ができるようになる点はあるものの、それ以降の世代ではもっとあらゆるジャンルがすでに存在し、何か一方を捨て去るということでは溢れてしまう危険が孕む。しかし例えばJ-POP的な明らかに否定をしなければならない文体も確かに存在しているという課題が浮かび上がり、今日にも通じてくる視野がこの章では明確に浮かび上がる。

「第6章 来たるべきものへ」の最終章では、再び第1章同様に灰野敬二のライブシーンから始まり、灰野敬二のライブシーンで幕を閉じる。間章の文章に再び着目し、その文学性や演劇性について語られつつ、音楽という本来批評不可能なものについて如何なる文体で語ることが可能なのか、そもそも批評は必要なのかという問いが議論されるが、灰野敬二の演奏はまさにこの問いに対して実作の演奏によって応答する「役割を果たす」。役割を果たすということは灰野敬二が語るように、人にはそれぞれにポジションがあり、様々なポジションで活躍する人がいるからこそ、自分のポジションが定まるという理論に通じる。そしてそのポジションを与えてくれた間章という人物の不在の重さが、静かにも長い余韻として響き残る。


1回目 2017年10月7日

青山真治による音楽ドキュメント。こんな記録の仕方があるのかという発見に満ちた野心的音楽批評であり、映画批評といえる。

音楽について語ろうとするとどうしても文学や政治やら何かを経由せざるを得ないもどかしさがあるので、音楽について語り、書ける人は本当に尊敬する。
ルサチマ

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