【夢をむさぼる地アブラハム渓谷】
有料note「映画と美術#28『アブラハム渓谷』プルーストたる美術作品との対話について」の一部です。全文は下記にて▽
https://note.com/chebunbun/n/n55f54a9f195d
動画版▽
https://www.youtube.com/watch?v=Wf19oyzXTTI&t=403s
ポルトガル北部、雄大な丘と川、そしてソカルトと呼ばれる段々畑が織り成すアルト・ドウロ地域はワインの産地として2000年以上の歴史を誇っている。中でも1756年以降に品質が定義されたポート・ワインはこの地を代表とするものとして知られる。そんなアルト・ドウロ地域をポルトガル映画の巨匠マノエル・ド・オリヴェイラは次のように定義する。
《アブラハムの谷は神が傲慢と恥と怒りを戒め人に託された地だったが、人はひたすら夢をむさぼり、偽善の限りを尽くした。
谷の族長アブラハムは難事が到ると妻サラの美貌を利用した。
妻を妹に仕立てて男達にしむけ、欲望に炎の矢を放ったのだ。》
ギュスターヴ・フローベール「ボヴァリー夫人」における都会への羨望と暴走、むさぼるようにして婦人雑誌やバルザックの小説などを読み漁り、空想を癒す欲望の糧を追い求める中、やがて夫であるシャルル・ボヴァリーを捨てて胡散臭い薬剤師オメーや青年レオンと不倫関係に陥り、やがて莫大な借金を抱えるエンマを象徴する語りからこの『アブラハム渓谷』は幕を上げる。
尼僧院で退屈することなく育ったエンマは医者シャルル・ボヴァリーと結婚する。しかし、マザーコンプレックスである彼の態度は彼女を満足させることができなかった。
《こうして、夫の胸の上にちょっと火打ち石をたたいてみても、火花ひとつ出すことができないとわかると、そもそも自分で実感しないことは理解できず、なにによらず紋切型の表われ方をしないものは信じられない質のエンマは、これはもうシャルルの情熱には強く求める激しさがまるっきりなくなったのだと、あっさり思いあきらめてしまった。シャルルの愛情の発露は定期的になってきた。ある決まった時刻に彼女を抱擁するだけ、つまりそれはほかの数ある習慣のひとつで単調な夕食のあとの、前もって何が出るか知れ切ったデザートのようなものだった。》
「ボヴァリー夫人(河出文庫)」p69-70より引用
《「ああ、なぜ結婚なんかしてしまったのだろう?」
ひょっとしたら別の巡り合わせで、別の男といっしょになることだってありえたのではないかと、彼女は考えてみる。そして実際には起こらなかったそうしたことを、今とはちがったその生活を、知るよしもないその夫を想像しようとつとめた。まったく世間のすべての夫が今の夫のような男ばかりではないはずだ。自分の夫と決まった人は、美男子で、才気にあふれ、品格おのずとそなわった、すばらしい人だったかもしれないのだ。尼僧院の同級生たちが結婚した相手の人はきっとそうにちがいない。》「ボヴァリー夫人(河出文庫)」p71より引用
エンマは、今が人生の中で一番楽しい時期《蜜月》であることを実感するために旅行が重要だと考えている。その本質は自分の今いる空間とは異なる場に身を投じることで生涯の最良の年であることを実感する点にある。空想の中にある理想郷を求め、場所を、男を転々とし欲望の限りを尽くすのだが満たされることなく狂気の渦中で息途絶える。
移動しつつ、叶えられぬ夢の表象としてオリヴェイラは「列車」を用いている。本作では反復するように列車の移動のイメージが挿入される。リュミエール兄弟『ラ・シオタ駅への列車の到着』からエドウィン・S・ポーター『大列車強盗』にかけて時間の流れ、つまり物語を運ぶ装置として列車が映画の中で確立されてきた。『アブラハム渓谷』でも、列車の場面は時間の流れを強調する役割を担っている。しかしながら、映し出される風景は雄大なドウロ河のままである。都会の生活、理想の男との生活を羨望しつつもコンプレックスの領域に囚われてしまっているエンマ像を翻訳した演出といえよう。