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花ちりぬのニューランドのレビュー・感想・評価

花ちりぬ(1938年製作の映画)
4.1
✔『花ちりぬ』(4.1p)及び『むかしの歌』(4.2p)▶️▶️

 石田民三はずっと忘れられててここ何年か再発見されたと、知人に言われ、少し驚いた。少なくともこの半世紀、50年近くは不動の名匠として、途切れる事なく称えられ続けてたと信じてたからである。1974年かの清水とカップリングFC特集は勿論観てないが、実際に見れたのはその何年後、'70年代の終わりくらいだったろうか、やはり·いや予想以上に凄いと驚き、流石にFCで特集を組まれる位の大巨匠だと思い込んでいたのだ。FCとしても、溝口·小津·吐夢らと扱いを並べる事は、英断というのが実情で、清水の添え物に近かったのかも知れない。しかし、その流れでも実際に観た人は、宝物として大事に語り継ぐ対象としただろう、気もしていた。
 それから20C世紀末に更に『三尺~』や『化粧~』『花火~』らも観たが、21Cには全く再見せずにきた(。1.2本を除きダメな作家と断じた中平と同じく、が·反対の理由で。そもそも全く知らなかったが、21Cになって2人の特集が何回かあったらしく、今回も知人と話すと3.4年前に観た時は、といった言い方をされた)。 
 『花ちりぬ』は、昔は1家屋内だけの展開、女性だけの現れの徹底に感心したものだが、今見ると、プリントの保存状態の石田作品ではいい方、セットのリアル以上の抽象アート的バランスとも溶け合った充実、たまたまか近くに迫る対米戦の銃後の心持ちの先取り、等が見事にかなり華麗に張り詰めていて、正に代表作たり得てる。
 取分け新鮮なのは、客らとの対応や、仲間同士での、若い芸姑らの「いけずっ」を連発しながらの、果てる事のない、現代の少女らよりもエネルギーに満ち予測不能スポンタニティまま、互いへの刺激の仕合いの反復·集団と個の融合発展形である。こっちが照れる位の女の子の留まり見せない生命力(ヴィゴの『操行ゼロ』の男子と似てまた対称的)。それはこのお茶屋の女将の娘のヒロインの、横から上へ駆け上るフォローや寄る移動、CU顔や急角度階段登り来る、発作的念願果たしへ向う噴出行動とカメラの連動に、間を置いてテーマに迄伸び結び付く。しかし、お茶屋にも有利になる長州藩士への嫁入以上に、「ここを抜け出し、彼も教えてくれた未知の世界へ」の個人の夢は、物干しに着いて屋根の埋め尽くしを周囲に見るに至り潰える。嫁いでもその家を出て行ったり来たりの「はっきりしない」者ら、芸姑修業より食事運びに徹する者、同性間の馴合いに嵌ってく者ら、戦火迫りや江戸落ちの環境への反撥で·他の呼ばれに行けない者·行かない者らも、突き倒し合う喧嘩も。女将が新選組御用ともなり、相対的にここの方が危ないとはっきりしてくると、外や頼る所に向い、足抜きも絡んだりし、出てゆく大勢。しかし、娘だけは長州藩士の文の無意味を放り、自分の出自の家に最後まで残ってゆく。彼女の顔つきの気にならぬ段差での寄り図の押さえが続き·重なる、ドラマトゥルギーとは別の空気が伝わる所も。基本総花的でバランス·造型·狂気、それぞれに見事だが、吸引·リードする圧巻には至らず、名作過ぎる難がなくもない。
 元治年間の祇園のお茶屋の1日+α。長州朝敵化の波が、治安の脅かされからモロ戦火、御得意先の権勢後退、として1軒の茶屋を遅い、かしましい芸姑ら、嫁ぎ先からの戻り、先を未来を見る女将の娘を、閉じこめ·脱出と居残りに分けてく。フォローや寄る移動や構図取りは細かく強いが、作品世界の枝葉になり溶け込み、際立ちはしない。
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 『むかしの歌』は、1877年大阪という設定(西南の役直前)、セットと外景ロケの綱渡り、と強固な世界を今一つ欠くように思える。しかし、限られた展開要素と視界は、思わぬ内部自体の醸成·突き抜けを見せてくる。画面のボケ、強い動作による金属音伝わり、似た場と図同士繋ぎ、の場面転換が溶解してきて、最たるは、商家から商家へ並ぶ2階壁の強いパン続きの次の場への強引移行か。その間のシーン本体も不定形、かつ密度濃く塗り込められ動かんとしてく。廊下から階段ー横へ歩き出し家屋から出よう降りようとする娘のフォローと男遮る狭い俯瞰図、図自体はフィックス連ねもそこを縦や横に抜けきる初老の男の盲目的闇雲さ、内からの世界への動かす意志と行動が地響きをスッとが·強く伝え来る。そして複雑な関係を瞬時感じ取る男や女の、切返しや受け余韻カットの組立の直截堅固さ。カメラ縦への動きやズラシ位置·CU表情·縦空間入れの必要以上の深さが、台詞の何倍も先に突き進み、あまりの速度に人物たちは慄くと共に·人智超えの方向を知らず獲得してゆく。窓外らの壁の模様の異様な歪みも元からか、フィットして不可思議にある。ラストは生家から花街へ居住を変えるヒロインの歩きから人力車乗り·そして延々侭来る長廻しだ。相手を思いやるが自らを制御不全で、止められない世界の大きな変革の流れ包みと相まって、相手の行くべきの先を打って、身動きさせず、より決定局面を内から並べ替え与えてく、本意を外れてもいる人物たち。
 「家存続の為の存在。あては何者や。その分好きな事、自分勝手しても許される。だから、家族に反対もいないのに、あんたと駈落ちなんかして壊してみたい。·····しかし、全ては分かってしもうた。何をするかも分かってしもうた。そうすると、怖おうてしょうがない。·····もう大丈夫や。寝込んではおられん。あまりに多くの事がありすぎて、やることも多すぎて怖がってはおられへん。あんたともうちょっと早う、家が破産前に結婚してたらな、は冗談やが、シィちゃんずっと置いてやって。一生でもええんやで。世界は動き変わり出したとも言う。挨拶してると、芸姑に出辛うなるわ。行くで」
 物越しの図、縦や俯瞰め、パンやフォロー、縦に抜けてく人ら、狭い路地や廊下をすり抜ける動き、キャラの打出し·柔化·受身耐えるらの組合せでの突抜け·より堅固の流れ。前衛すら呑み込み下し、見分けられない形が成ってゆく。
 船場の船問屋の1人娘と、油問屋の1人息子の婚儀話の友達域出ない停滞。娘は、不妊母の代理母の雇い入れの子で、その女は出て旧幕府側の元侍と一緒になり、そこでも娘をもうけてる。2人の娘が互いを知らず近しく姉妹もどきになり、事の仔細の割れて2人の心にひびと突抜けが、また、西郷立つが、藩士は戦場に未来と散る覚悟かけ、船問屋主人は家業怠る相場入れあげ失敗破産を招いて、影響してく。
 東宝時代の石田は剥き出しの才気を避け、威圧や威厳と無縁で、それ以上の深い核に柔らかくさり気なく届く。花井蘭子の歳などこれまで気にもしたことはなかったが、この2作、二十歳前とは。驚いた、と共に原節子と同じように二十代前半の最も輝いてた頃と太平洋戦争が被ったわけか。それぞれ、息の合う伏水や石田とまだまだ組めていたら、と思う。
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