Foufou

陽気な中尉さんのFoufouのレビュー・感想・評価

陽気な中尉さん(1931年製作の映画)
3.0
最近映画史的な視点で(と言ってもあくまで我流ですが)映画を観るのが面白くなっていて、昨夜は1931年にエルンスト・ルビッチが監督した『陽気な中尉さん』と1974年にアッバス・キアロスタミが監督した『トラベラー』を立て続けに鑑賞。

両者の選択に何の必然性もありません。強いて言うなら古典的ハリウッドの文法で撮られた映画と、西アジアの、リアリズム=ドキュメンタリータッチの映画を並べて鑑賞することで、凡庸な受容器官たる私自身が何を感じるのか、その感じ方に映画とは何かという問いかけのヒントになることもあろうかという、まったくもって恣意的な、極私的な「実験」なのでございます。

『陽気な中尉さん』については、『映画千夜一夜』で淀川長治がお得意のネタバレを披露してまして。刊行当時は、そんな映画もあるのかと指を加えて読むほかなかったわけですが、サブスク時代の功徳ですね、ルビッチの古い映画が何作と無料で観られてしまう。『陽気な中尉さん』をアマプラのラインナップに見つけて、俄然テンション↑↑↑は言うまでもございません。

観ながらまず興味深く思ったのは、淀川長治の記憶違い。大筋で間違いはないにしても、人物の設定や関係は彼の語るそれと映画の実際が異なるし、鑑賞者である彼が映画の余白を読んでしまっていて、実際には口にされないセリフを、「最後に女がこう言うのね……」なんて言っちゃう。言わないからこそのエロティシズムをルビッチが狙ってるところ。でも鑑賞者としての淀川長治はそこをきちんと汲んで観ているからこそ、遠い記憶を探る過程で、そこは「はっきり言われたもの」として喋っちゃうんでしょうね。二人の女が一人の男を争うわけですよ。で、一人が「新しい軍服、ステキでしたでしょ」と言うと、もう一人が、「最高よ!」と受ける。「でも夜会服はもっとステキよ」と自慢すると、「あらでも、もっとステキなのは……」とここで言い淀み、相手が「なになになになに?」と前のめりなるのへ「……Never mind」。

言い淀んだほうは、男とは朝食から始まった関係なんですよ。だから、観客は分かるわけです、「夜会の後は、もっとステキ」と言いたいんだな、と。女たちの男をめぐるやりとりはここで終わるのに、淀川長治は「女がパジャマはもっとステキって言って、相手がそこでワーッと泣き出すの」。ここ、淀川長治の言わば創作なんですね。

人が観た映画をどのように記憶するかのひとつの典型をまざまざと見る気がして、思わぬ収穫でございました。そうなんです、昔観た映画の記憶はあてにならない。細部は多少違ってよろしい、テーマはつかんでる、なんて思ってても、これまた観返してみるととんだ勘違いをしていたなんてことも、よくあることで。だから昔観た映画について語るのは難しいというのが私の立場です。もちろん話題にするんだけど、過去の自分に全幅の信頼は置けないわけです。だからこそ、この場を借りてくだくだしく書いているのでもある。今の私は映画をこう観てこう感じた、と記録することは、十年後の、あるいは二十年後の自分との対話を楽しみにしている、ということなのかもしれない。もちろん、ほかの人がどのように私が観た映画を観ているのかを知るのも楽しい。

舞台はウイーンです、フラウゼンタウムですとかいったってね、全部セットなわけです。ゴージャスな舞台装置。映画がオペラなど舞台の延長線上にあることがまざまざと分かる。そこで、綺麗に着飾った綺麗な役者たちが、歌い、踊り、大仰に喚き、おどけてみせる。男をどうやって物にするか、女同士の駆け引きになるどころか、一方が一方へアドバイスして、そうすれば男は物になるわ、なんて言って身を引くなんてのは、粋でシャレ乙じゃございませんか。とまれ、下着云々の猥歌をピアノを伴奏しながら歌う場面は、映画の見せ所なのだけれど、今の時代、反感買うのは必至。

観終わって、ああ、おもしろ、この軽みと後腐れなさがおおらかでステキ、なんて呑気に感想している。そう、映画はあくまで消費物であって、金を払った観客をわざわざ不快な思いにして帰宅させるなんてことは少なくともルビッチは考えていないわけです。疑似的な「吊り橋効果」はプロットのなかに当然あって、カップルで観に行けば、朝食から始まる関係が始まるのも断然期待できる仕掛けに満ちている。

ただ、朝食で始まる関係は、ディナーまで持たないんですけどね。

さて、そんなハリウッドで鍛え上げられた映画というメディアが、隔たること40年のイランで、何を語り出すかですよね。かくしてトラベラーよろしく『トラベラー』まで時空を超える。
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