このレビューはネタバレを含みます
【人生は血まみれの冗談】
動画版▼
https://m.youtube.com/watch?v=NhWWtoTlIsw&t=668s
Bunkamuraル・シネマにて開催中のマノエル・ド・オリヴェイラ特集で念願の『カニバイシュ』を観た。矢田部吉彦のシネマ・ラタトゥイユによれば一切の情報を遮断して観た方が良いとのことだったので、レビュー等は全力で回避し劇場へ向かった。なるほど、確かに本作はネタバレ厳禁な作品である。ネタバレを知ってしまうと面白さが半減するからだ。と同時に、それまでの映画なので映画としての評価は低い。ただ、退屈な1時間を乗り越えた後のブレーキの壊れ具合が異常なので好きな映画ではある。ということで本記事はネタバレアリで語っていく。
アンドレ・バザンが「映画とは何か」の中で舞台と映画の差について議論していた。舞台は観客の固定された眼差しの中で虚構が紡がれるのに対し、映画はショットによって眼差しの向くべきベクトルを変更することができる。ローレンス・オリヴィエ『ハムレット』では急勾配な階段の傾斜を強調することで、心理的境界を浮き彫りにする映画的アプローチでもって演劇の拡張を行った。マノエル・ド・オリヴェイラ『カニバイシュ』では、メタ的な演出でもって演劇/映画の境界線を浮き彫りにさせていく。
冒頭、屋敷の前にリムジンが大名行列し、役者が吸い込まれていく。対岸には宝塚の前の出待ち客がごとく群衆が声援を送っている。観客と役者の距離感を屋敷/通り/対岸といった映画ならではの空間で表現していく。
フィクショナルな世界へは狂言回し的男の語りによって誘われていく。「ロミオとジュリエット」「若きウェルテルの悩み」のような悲劇であることを物語る一方で、舞台はどこでも設定して良いと後半の無茶苦茶な展開を示唆する。彼は舞踏会の外側。仕切りの外側から物語構図について語るメタ的な眼差しとして機能する。その中でオペラの王道ともいえる三角関係が紡がれていくのだ。
全編、「詩」で構成される本作は、キャラクター関係が掴みづらく、画としても平面的で退屈に感じるのだが、後半30分で突然ブレーキが壊れる。アヴェレダ子爵の手足がなくなるのだ。暖炉に肉体が転がり、丸焦げになるなか、目撃者は放置された手足をどうするか悩み、ゴミ箱のようなものにとりあえずツッコむ。それが家族の食事として振る舞われる。
子爵の肉なのにクソマズいらしく、そこからの楽曲は「肉がマズい」曲で覆われ始め、その肉の正体を知った男たちに修羅場が降りかかるのだ。結局自殺しようとするも、相続に目がくらみ、豚と犬に変身して、カニバリズムパーティーへと発展する超展開で締めくくられる。
「人生は血まみれの冗談」といったパワーワードを体現するようなオチがつくのだ。
オリヴェイラの作品は、高尚文芸映画のように思えて超展開へ転がる傾向があるのだが、本作はその極みだろう。ジャンルとしてはオペラ・ブッファ(喜劇的なオペラ)なのだが、オペラの構造をメタ的にぶった切って皮肉る作品と捉えることができる。