フィルムノワールの巨匠ロバート・シオドマク監督(当時29歳)の初単独長編。ドイツUFA社の初トーキー作品。原題の意味は「Abschied(さよなら)」。若い恋人の悲恋物語。脚本は後に「赤い靴」(1948)を監督するエメリック・プレスバーガーと「ジョニー・ベリンダ」(1948)の脚本を務めるイルマ・フォン・キューブ。
ベルリンの安アパート。貧しい4組の居住者の中に婚約中の若いカップル、セールスマンのピーターとヘラがいた。ある日ピーターは遠いドレスデンの街での高給職を紹介される。成功すればヘラと結婚できると喜びアパートに帰った彼は居住者たちに報告するが、ヘラを驚かそうと彼女にだけ秘密にしていた。ところが居住者の一人がヘラに秘密を漏らしてしまう。今度はヘラが彼を喜ばせようと知り合いの男性から借金をしてドレスを買いに行くが、これが原因で思わぬ思い違いが起こり。。。
サイレントでは不可能なトーキーならではの様々な表現が用いられとても興味深かった。劇伴の代わりにアパートに住む音楽家のピアノ音を多用。隣室の掃除機や電話機などの環境音、ドア越しで話す人の声とそれを聞くヒロインの顔など、次々に音声モンタージュが用いられている。伴って、顔のインサートカットは浅い被写界深度によって印象度を強め、サイレントでは成し得ない新たな内面描写を試みている。
トーキーの到来に多くの映画人が手こずった時代、本作からは初長編がトーキーとなった若いシオドマク監督の挑戦的な姿勢が伝わって来た。音声の仕上がりは完璧以上であり、初期トーキーで音声モンタージュを開拓した一本として記録されるべきかもしれない。トーキーが映画にもたらしたのは、場の空気と時間の表現なのだと再認識させられた。
映画全体としては、ドイツ表現主義から脱却しフランス詩的リアリズムのような雰囲気。むしろ本作の方が先行しているのではないか。戦後フランスのカイエ批評家の評価を信奉していると大きな勘違いが起こるので気を付けたい。
エンドクレジットの後でエピローグが入る演出は例えば近年のMCUを遥かに先取りしていて驚いた。ただし実はこのパート、監督と脚本家には無断で映画会社が制作して付け加えたらしい。無理矢理なハッピーエンド化なのだが、これが意外に味わい深い。主人公カップルは登場せず居住者たちの噂話なので真実かどうかは解らない。悲しい記憶を改変しようと庶民たちが生み出す、“伝説”の発生を垣間見たような不思議な感覚が思いをよぎった。