櫻イミト

Someone Else's Children(英題)の櫻イミトのレビュー・感想・評価

Someone Else's Children(英題)(1958年製作の映画)
3.8
題名邦訳「他人の子供」。テンギズ・アブラゼ監督の「青い目のロバ」(1955)に次ぐ2本目の劇映画。

ジョージア(グルジア)の首都トビリシ。幼い連れ子の兄妹を持つ父親ダトはテオに求婚していたが、彼女は子供の世話はできないと去って行く。ある日、兄妹は優しい女子大学生ナトと路上で出会う。ナトが大好きになった兄妹は家に招いて父親に紹介、やがて家族の様に仲良くなる。ナトは父親ダトとの結婚を考え始めるが、ダトは去って行ったテオを忘れることができずにいた。。。

アブラゼ監督といえばジョージアの大地ロケーションが自分のお気に入りなのだが、本作は市街が舞台。一体どのような映画に仕上がっているか興味津々で観たところ、これもかなり好みの面白い一本だった。

ベースはイタリア・ネオリアリズモのようなタッチ。街を走り回る小さな子供たちの姿はロシア・ニューウエーブ独特の流麗な移動撮影で捉えられ、実に魅力的な映像が頻出する。ビルの屋上で背景に広い街並みを置いてのカット。電車の車窓から流れていく街頭や並走する隣の電車の車窓に見える人の顔、橋の上を走る子供達のドリーショットと大俯瞰の切り替えしなど、舞台が大地から市街に変わってもアブラゼ監督のロケーションへの拘りは同じで、風景論が演出の軸にあることを再認識することができた。中でも、サイドカーに親子とヒロインの4人が乗って山道を走る長めのシーンは多幸感にあふれ、台詞なしに4人のきずなが深まっていく時間と心を表現して秀逸。

物語は前作「青い目のロバ」と同様に、可愛らしい子供たちと世知辛い大人の事情が対比して描かれていた。そして子供への女性の慈愛が社会から蔑ろにされる点も共通している。それでも、両作の女性ともに子供を守りつつ前を向くところで結びとなる。監督は、この世で唯一の尊い真実は母性愛だと考えているのかもしれない。

広い街の中を活発に駆け回る小さな妹の姿が愛らしい。そんな妹がナトを乗せて去りゆく電車を必死に追いかけるが、その姿がどんどん遠ざかって小さくなり見えなくなる。映画の終盤に電車を追いかけるシーンは他にも沢山観てきたが、映像としては本作がベスト級だった。

最後に父親が取った行動は本当に酷いもので、再び帰ってくる可能性はあるにしろ罪深い。一方、他人の子供にも関わらず見捨てることができないヒロインの選択は立派であるが、その表情は固く、笑顔を見せることなく子供たちと歩いていく。いわば問題提起型の終幕となる。単純化すると、子供を捨て女に走る職工の父親と、他人の子供を見捨てずに生きようとする女子大学生との対比であり、そこには教養格差が横たわっている。果たしてアブラゼ監督がヒューマニズムと教養の比例を念頭に置いていたかどうかは判断しかねるところ。本作は、新聞記事を読んで着想したとのことで、実際に似た状況の出来事があったと推測される。個人的にはヒューマニズムと教養の比例は残念ながら在り得ると考えているので、映画を楽しみつつも深く考えさせられる一本だった。

※映画の中の子供の描き方について雑感MEMO
子供の描き方を翌年の「大人は判ってくれない」(1959)と比べてみた場合、トリュフォー監督(1932生)の描く子供は自分自身の投影だが、アブラゼ監督(1924生)は本作も前作も親目線で子供を描いている。プロットでの主人公が親なのだから当然ではあるが、子供主人公のプロットへの変更も選択できたと思われる。

考えてみたら、イタリア・ネオリアリズモの「靴みがき」(1946)「自転車泥棒」(1948)や、ヌーヴェル・ヴァーグ以前のフランス・リアリズム「禁じられた遊び」(1951)などは大人目線で子供たちが描かれていた。本作もその系譜に含まれる。一方、ヌーヴェル・ヴァーグ系監督の多くは主人公が子供であれ自己投影・自己代弁させているように思われる。即ち彼らヌーヴェル・ヴァーグ系の説く作家性とは自己愛を指すのかもしれないと仮説を立てておく。彼らの映画を称賛する者たちの文章からは、やはり自己愛が漂ってくる印象が強い。
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