晴れない空の降らない雨

独裁者の晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

独裁者(1940年製作の映画)
4.2
 序盤の第一世界大戦のくだりと、後半がとくに面白い。銀貨の押しつけ合いも楽しいし、ナパロニ(ムッソリーニ)が来てからのギャグは全般的に笑えた。最初の不発弾とか対空砲とか、椅子とか積み藁から出てくる戦車とか、舞台装置もなかなか凝っていて見応えあったし。まぁナパロニはイタリア人というかアメリカ的なキャラクターになっているが。
 
■ワーグナー
 ラストの演説は正直そんなに期待していたわけではなかったが感動した。このシーンでは、ヒトラーが愛好したワーグナーの楽曲(《ローエングリン》第1幕の前奏曲)が使われている。いかにもな神聖さを感じさせる美しい音色だ。
 この曲は、その前にも登場している。独裁者“ヒンケル”が地球の風船をもてあそぶシーンである。つまり、まったく対照的な使い方をしてみせたわけだ。独裁者の幼稚な誇大妄想を嘲ることが目的だったと思われるこのシーンで、神秘的な崇高さをきどるワーグナー音楽を使用することは、もちろん皮肉という効果を期待してのことだろう。……と納得していたのだが、ラストに反復するとは、なかなかの手の込みようだと思った。(なお、このシーンについては後でもう一度触れる。)
 
 この反復を興味深いと思ったのは、リヒャルト・ワーグナーが、ナチスの上層部にかぎらずドイツの右翼にとって象徴的存在だったからだ。
 『独裁者』は、「喜劇王」チャップリンが、ヨーロッパ中に戦火を広げユダヤ人を迫害しているドイツの新しい王様に挑んだ闘争である。この男が、映像を自己宣伝の重要な手段として活用してきたことはよく知られている。そうしてヒトラーが築き上げてきた自分に対する大衆のイメージを、やはり長年にわたり映画を使って普及させてきた「チャーリー」のイメージで乗っ取り、壊してやろう、というのが『独裁者』におけるチャップリンの目論見なわけだ。
 その「乗っ取り」が極まるのが例の演説シーンであり、我々は同じチャップリンが2人の対照的な人間に分裂しているのをずっと観てきたわけだが、ついに両者はフュージョンする。平和と自由と民主主義を訴える独裁者として。そこで、世界征服を夢想する独裁者のシーンで流れた音楽が再度かかる。
 言うまでもなく、ヒンケルに紐付けされたこの曲をラストにおけるチャーリーの見せ場で再び聞かせることには、2人のフュージョンを補強しようという意図がある。しかし、それだけでない効果を感じた。チャップリンが狙ったかどうかは分からないが、このとき、ワーグナー自体が、人類共通の遺産として、ドイツ民族主義者の手から救い出されようとしているようにも思われたのだ。
 
 また、最初にワーグナーがかかる場面、つまり独裁者が世界征服を夢想するシーンの最後に風船が破裂し、同時に音楽も途絶する。その直後、ユダヤ人理容師に扮した我らがチャーリーに場面がうつるわけだが、ここでチャップリンはブラームスの《ハンガリー舞曲》に合わせてパントマイムを演じている。この曲が、ユダヤ人と同じくナチスに虐殺されたロマ人の伝統音楽を基にしていることを知っての採用であることは間違いない。チャップリンの音楽に対する造詣の深さが窺える。
 
■第一次大戦、不況、疎外
 本作は第一次大戦の末期から始まる。終戦からナチス政権成立までの時代経過は、新聞の一面でダイジェストしていく。その一面記事のなかには、世界恐慌のニュースも含まれている。そのうえ、ラストの演説では、『モダンタイムス』のテーマが繰り返され、機械化が人間性を損なうものとして糾弾されている。そればかりか、合理主義のような近代精神そのものにも批判が向けられる。
 
 なぜ本作は第一次大戦から話を始めたのか。
 確かにストーリー上の意味はある。しかし、これは完全に自分の想像だが、チャップリンは、そもそもなぜファシズムが生まれたのかについて、より踏み込んだ考えを持っていたのではないか。
 第一次大戦の敗北によって莫大な賠償金を課されたこと。その返済が世界恐慌によって困難になったこと。不況がドイツ人の生活を直撃したこと。そしてより根本的には、単調でハードな工場労働や合理的思考が「シニシズム」をはびこらせ、「人間性」「思いやり」を欠いた機械のような人間を生み出していること。
 ラストの演説における批判は、ナチスどころか、独裁とか人種主義といった問題を超えて、その根源にある近代性そのものに向けられている。
 そんなわけで、かなり踏み込んだ内容を話しているなぁと感動した次第である。
 
■風船のシーンのシュールさ
 こうしたチャップリンの問題意識は、本作の風刺にも現れる。
 独裁者ことヒンケルは分刻みで行動し(これも『モダンタイムズ』を連想させる)、部下の死にも動じない、人間味を欠く存在として描かれている。とくに前半の独裁者パートにおいて、ギャグや雰囲気は無機質なシュールさを帯びており、やがてそちらが本体になってしまう。
 先に取り上げた風船のシーンにおいて、そのシュールさは頂点に達している。ここでは世界征服を夢みる幼稚な独裁者が風刺されており、そのためにワーグナーの神秘的な音楽が皮肉な使われ方をしているのだった。
 しかし、そのような効果を本当にあげているだろうか。
 ふわりと宙に浮かぶ風船と、チャップリンの優雅な所作、そして《ローエングリン》第1幕前奏曲は、このシーンをどこまでも夢見心地なものに、この世の物とは思えないものにしている。同時に、このシーンの独裁者は、幼稚とか愚かというよりも、ただ純粋で無邪気な存在のように見える。
 このシーンを観る人が何となくもぞもぞしてしまうとすれば、それは見ちゃいけないものを見ている気がするからではないだろうか。それは純粋で無邪気な大人の人間、つまり狂人である。
 ギャグとは「常識を外す」「当たり前の予想をうらぎる」ことでその「可笑しさ」を得ているが、だとすれば究極のギャグとは狂気(「おかしさ」)ということになる。その場合、シュールギャグとは狂気に少しだけ接近したギャグのことだろう。しかし、このシーンにおいては、シュールギャグはもはや単なるシュールと化していないか。
 本作の独裁者パート(あるいは、上の方針しだいで態度が180度変わる突撃隊)が、もはや「可笑しさ」というより「おかしさ」を感じさせるほどにシュールになっているのは、チャップリンの戯画化が「本質の純化」として作用しているためではないだろうか。つまり、ここでチャップリンは、彼らの本質的な狂気に接近しているのだ。それもまた、彼の天才的直観が為せたことなのか。


※追記
 たまたま読んだ『中央公論』にチャップリンの評伝が連載されており、ちょうどナチスについて書かれていた。
 それによるとナチスは20年代からチャップリンを敵視しており、ユダヤ人認定までしていたそうである。政権獲得後、写真や映像などを一切禁止したほど。やはり「ちょび髭」が気になったらしい。このレビューでは、チャップリンがヒトラーに挑んだと書いたが、もともと喧嘩を売ったのはナチスのほうだったわけだ。
 他にもガンジーとの対話で機械文明への批判的視点を身につけた、とか面白い話があって有益だった。