keith中村

人間の証明のkeith中村のレビュー・感想・評価

人間の証明(1977年製作の映画)
5.0
 佐藤純彌の昭和50年代超大作映画ってとても不思議で、演出が大味で雑なんだけれど、どれも無類に面白い。
 「雑だな」というのは、生意気にも小学生・中学生だった当時から感じていた感想で、つまりは「駆け出しの映画ファン」ですらなかったまだまだなかった自分でもそう思っていたわけである。
 ただし、それでも滅茶苦茶面白い。
 
 映画ファンのほとんどがそうであるように、私はもちろん「作家主義視点」で映画を観るタイプの観客なんだが、佐藤純彌の作品を観ると、監督がどーのって話抜きに、「いいホンがあって、いい役者が揃えば、面白い映画が作れるんだ」とさえ感じてしまう。
 ん~、言い過ぎた! ちょっと誤解を招く書き方になった。
 佐藤純彌のシゴトを否定したいわけじゃないんです。大ヒット作を連続で叩き出した彼を「監督」として評価するなら、客観的にはフィルムに焼き付いてはいない「磁場や勢い」を現場にもたらしたことが功績で、それこそが彼の「作家性」なんだろうと思うのです。
 
 本作もご他聞に漏れず、「あまりに救いのない(=無類に面白い)ストーリー×豪華俳優陣×ニューヨーク・ロケ」の相乗効果で傑作となった作品。
 あと、大野雄二のサントラも最高!
 
 ジョー山中のテーマソングや原作文庫本(本作も角川商法の一環)も当時大ヒットしました。
 もちろん映画そのものも大ヒット。
 私は劇場では観てなくって、テレビの初放送で観たと思う。Wikipediaによると、1978年10月6日ですね。
 本日43年振りに2回目の鑑賞。
 それでも、冒頭の「Kiss Me!」はもちろん、「スペイン系はRの発音が強いので、それを隠すためにはわざとRをほとんど発音しない」とか、松田優作の「てめえいったい日本人何人殺せば気がすむんだよ!」とか、あらすじだけじゃない細部も記憶していた通りでした。
 あと、当時はジョージ・ケネディはすでに認識してたな。「大空港」シリーズの「アメリカのちゃんとした俳優」が邦画に出てる! ってびっくりした記憶があるもの。
 逆に三船が出てたのは全然記憶してなかった。当時は黒澤を一本も見たことがない小学4年生だったもんな。
 
 いやね。
 最近「名探偵コナン」のレビューを2本書いたのと、それ以上に何本かこの週末に劇場版コナンを観返したので、本レビューは実は佐藤純彌論ではなく、青山剛昌論でしてね。
 だから、ここまではただの前書きなんです。
 
 「緋色の弾丸」のレビューに書きましたが、私が「名探偵コナン」を、そして青山剛昌先生を尊敬するようになったのは、「犯人を推理で追い詰めて、みすみす自殺させちまう探偵は、殺人者と変わんねーよ」というコナン君のセリフ。
 これって、横溝を代表とする近現代の探偵小説の全否定なんですよ。
 金田一なんて、「しまった! 遅かったか!」なんつって犯人に毒薬飲ませちゃうじゃないですか。「みすみす」と。
 
 コナン君は絶対に犯人を自殺させない。
 あくまでも「法の裁き」を受けさせる。
 これって「法」を、そして「法治国家」を青山剛昌先生がとことん信じているからですよね。
 
 私は何も現代日本を理想的な法治国家だと言いたいわけじゃないですよ。
 そうじゃなく、たとえ今の日本が理想的な法治国家じゃないにせよ、せめて「物語」の中だけでも「法」をとことん信頼できる理想的社会を描くことで、その物語に影響を受けた「観客」が少しでも現実社会を理想に近づけられるよう活躍してほしいという青山先生の「願い」だと思うんです。
 だってそうでしょ?
 「名探偵コナン」のメインターゲットは、私のようなオッサンじゃなく、コナン君に憧れ共感しつつ、これからの社会を担っていく、コナンや新一と同世代の子供たちなんだから。
 
 一方で、「殺人者と変わんねー探偵」は、横溝正史を代表とする作家の創造物。もちろん、「人間の証明」「野性の証明」の森村誠一もそっち側の作家(森村さんにはなんたって最強の陰謀ドキュメンタリー「悪魔の飽食」だってあるもんね)。
 そっち側の作家は、「理想的国家」なんて信じてないんだわ。
 それはつまり、一度は国家を信用して、そして裏切られたトラウマが元になってるので、世代的には仕方がないことなのかもしれないけれど、「法」などというものは信頼できない。それはそれで悲しいことだけれど。
 で、犯人を法に委ねるよりも、「自殺を容認すること」のほうが美談になっちゃうわけ。
 この論法でいくと「犯人の自殺の容認」は、「法の裁き」ではない方法による生命のターミネーション/アボーションという意味での「私刑の肯定」にまでつながっちゃうよ。
 本作では何人も死ぬけれど、法によって裁かれた人ってただの一人もいたっけ?
 
①「近代的法治国家」が信じられないから、自殺や私刑によるアボーションを是とする態度(=近現代探偵小説)。
② 自殺や私刑によるアボーションが最終的にはアナーキズムしか招かないことがわかってるから、「理想的法治国家」を希求する姿勢(=名探偵コナン)。
 ①②のどっちが崇高かは明白ですよね。
 
 本作の探偵役は、ラストで犯人を「みすみす」どころじゃなく、同僚刑事による逮捕を制止してまで、積極的に自殺させちゃうんだよ。
 その場にコナン君がいたら、そんなのサッカーボールとか、麻酔の針とか、いろいろ使って阻止してますよ!
 
 昔の映画の鑑賞法には二種類あって、「その頃の価値観」に寄り添って観る方法と、「今の価値観」で観直す方法。
 たとえば、公民権運動を意識するかしないかで、「國民の創生」や「風と共に去りぬ」は全然違って見える。
 あと、最近のLGBTQ的観点の有無で見え方が違ってくる映画も大量にある。
 そして、今回の論点であるところの「法治主義VSビジランティズム」を描く作品も数多くあって、たとえば「ダーティ・ハリー」は1作目と2作目でそれを鏡合わせにすることで相対化し、観客に問題提起する優れた構造を持ってましたよね。
 そんな意味で、「名探偵コナン」は「法の下の平等」をこそ信ずる崇高な法の執行者を描いた、探偵ものではありそうでなかった、ものすごくラジカルな作品で、コナン以前と以後では、探偵ものの見え方が全然違ってくるという、その意味では物語史上に留めるべき記念碑だと思っています。
 
 ま、とはいえコナン君、捜査する上で公共物ぶっ壊したりとか、交通ルールを全然守ってなかったりとか、するんだけどさ(笑)。
 
 最後にちょっとだけ「人間の証明」に戻しとこうっと。
 この映画からちょうど干支が一周したあと、同じく松田優作が出演した、本作とやっぱり鏡合わせの映画が公開されましたよね。
 あっちは本作とは逆にNYPDの刑事が日本に来る話でしたが、タイトルの「黒い雨」がやっぱり日米の戦争を象徴していました。こうやっていろいろ繋がってくから、映画って楽しいですね!
 
 あ、「ブラック・レイン」はレビュー書いてますので、よろしかったらご覧ください。
 今回以上に個人的な些末なエピソードしか書いてないんですがね(汗)
 
 えっと、最後に本作のスコアですが、「コナン史観」で減点するのは法の不遡及の原則に反するので、小学校の時の初見の印象そのままに満点を献上します!