士郎正宗によるSF漫画を原作に、伊藤和典が脚本を、押井守が監督を手掛けた1995年公開のアニメ映画。
大友克洋が自身の漫画を原作に製作した「AKIRA (1988)」と並んで、SFアニメーションの歴史の転換点となり世界中の製作者に大きな影響を与え、多くのフォロワーを生んだ作品。
綺羅びやかなだけではなく、カオティックで退廃的な未来都市の風景の描写は、それそのものに主役のような強烈な存在感と、唯一無二の美しさがある。
作品の公開から約30年 (漫画原作の初出からは35年) 経った今観ても、21世紀の現在とこの先の未来を予見していたかのようなテーマの強さは古びていない。
作中で「義体」と呼ばれる人工身体が普及した世界において、人間や生命の定義とは何か、どこまでサイボーグ化されたらそれは人間と呼べなくなるのかといった哲学的で重い問いが提示される。
また、個人が一生をかけても習得できない膨大な情報 (人類の集合知ともいえる) が既にネットにアップロードされている現在において、原始の海から私達の祖先となる物理生命が発生したように、情報の海から自律的な意識という生命体が生まれる可能性を誰も否定できないのではないかという問いもまた重い。
押井守は原作の内容を大幅に脚色する作風でよく知られ、よくいえば換骨奪胎、あるいは解釈の暴走だという批評もある。
この作品においては、原作の再解釈や演出的な拡張はありながらも、その世界観や展開に則った絶妙なバランスの構成が、伊藤和典の脚本によって成功している。
川井憲次による劇伴も素晴らしく、マシンやサイボーグが日常的に存在する未来における「ゴースト (生命の意識や魂を指す)」の存在を信じさせてしまうような力をもった、土着的で有機的な質感がある。
この映画の鑑賞後にずっしりと残る読後感は、画や音の演出の素晴らしさだけではない、SFと哲学が限りなく近接することで形を成した、遠からず人類が直面し回答しなければならない問いの重量なのだろうと思う。
主人公の草薙素子の声を素晴らしい存在感で演じられた田中敦子さんの、ご冥福をお祈りします。
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