ニューヨークの会社員ポール。ある日、妻が何者かに襲われた挙げ句に殺され、娘も暴行される。ポールは憤り、悲しみに打ちひしがれる。そんな時、ひょんなことから銃を手に入れたポール。彼はその銃を密かに携え、公園で襲いかかってきたチンピラを射殺。これをきっかけに沈鬱な状態が吹っ切れ、以来、次々とチンピラたちを仕留めていくポールだが…。
自分の家族が何者かに殺されてしまったら?
被害者の家族に復讐することは許されない。司法の決断に従うしかないのである。
殺人を犯した人間に死刑という判決が下されないことが間々ある。
では行き場のない被害者家族の感情はどこへ持っていけばよいのだろうか。
これは当事者になってみないとわからない。
外野にいる限り、「どんな悪人でも死刑はよくない」
そんな風に思ったりもするが、それが自分の家族を殺した人間に対して同じように思えるかはわからない。
ポールは犯人(家族を殺した実行犯)に復讐をしているわけではない。
そのような状況を作り出している社会に憤り、悪人を記号化し自らの価値観で死の制裁を加えている。
ポールはそうやって自らも罪の意識を背負うことで、悪人と自分を同類としたのだろう。そうやって彼は不安定ではあるが“正常”な状態を保っているのである。
確かに悪人に罰を与えるその様は痛快かもしれない。
けれど、並の精神力ではすぐに破綻してしまうだろう。
罪の意識に苛まれていたポールは、徐々に麻痺していく。
そうすることでしか精神を保つことができない。
『狼よさらば』はとてもアメリカ的だと思う。
誰も制裁を加えないなら自らの手で下すしかないだろう? 真顔でそう言うアメリカ人は山ほどいるはずだ。
愛する人を殺されたら?
そんなことわからない。
だから本当は殺されないようにするしかないのだ。そのアプローチを“個”でするか“社会”で考えるか。
ポールはそんなアメリカを象徴しているように思えてならない。
ちなみにスタローンがリメイクを発表したのだそうだ。
個人的にスタローンがポールを演じることは主旨からずれるように思えてならない。
そういった意味では『狼の死刑宣告』のケビン・ベーコンはかなり楽しみである。