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高校生ブルースのninjiroのレビュー・感想・評価

高校生ブルース(1970年製作の映画)
2.5
こんな危ない映画だったとは。

落日の大映:最末期の作品とあって、その台所事情から最早形振り構っていられない感が全体に漂っており、当時の世相の閉塞感とも相俟って、明るいトーンで描かれて然るべき筈のシーンも受ける印象は鉛のように重たい。

高校一年生、学年のマドンナ的存在の美子は、彼女に好意を寄せる同級生、昇の盲目な劣情に絆される形でなし崩し的に初めての肉体関係を結ぶが、程無くして自身が妊娠している可能性を認識する。それが確信に変わろうとする頃、昇にその胸の内を告げるも、昇は事態を受け止めきれずに狼狽するばかり。

この作品の主題によって提示されたセンセーションは、今やこの現代社会に於いては中学の道徳の授業の教材に採用されてもおかしくない程陳腐化してしまった。
こうした現実は噂話であったり、実際多くの人の身の回りでも起こっていることで、今更センセーションという程の驚きには値しないのは確かだが。
しかし、本作が今日において尚、観る人の心を掻き乱し、まあストレートに言ってしまえば「観ながらとんでも無く嫌な気持ちにさせられる」要因は、その主題から一歩も二歩も踏み込んだ先で主人公達が為した選択にこそある。
このあたりこそが、逆に今日的倫理観に慣らされた現代に住む私たちにとっては相当にショッキングなものであり、ことの良い悪いは置いておいて、今日的な事情の中ではこんな映画はもう絶対撮れないだろうということだけは肌感覚で感じられる。

直截的な意味では、当時実年齢まさに15歳の関根惠子(現・高橋惠子)に堂々たるヌードと性交シーンを演じさせているという、制作側の形振り構わない姿勢も今では相当問題になるであろうことは想像に難くないが、もっと問題なのは、本作自体の制作動機と内包したメッセージが、本作における表現とテーマの過激さを凌駕し、そこに確固たる必然性を与える迄には至っていない、というか寧ろハナからそんな気はないとばかりに盲目にセンセーショナリズムに向けて狂走しているように容易に感じ得てしまう処にある。
要するに脇が甘い。最初っから防御する気配など見当たらない、完全なる真っ裸である。

少し意地悪な見方にはなってしまうが、そうした時代性の違いにより現代の目で見ると図らずも相当スリリングに映ってしまう部分にフォーカスしてわざわざ心をざわつかせるのも、昔の映画を観る上での醍醐味の一つとも云えるのではないか。
昔は良かった、などと感傷じみていうつもりはないが、何かと五月蝿い今の世の中に少々うんざりすることも、時折あるし。
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