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摩天楼のharunomaのレビュー・感想・評価

摩天楼(1949年製作の映画)
3.5
ビター・ヴィダー
アメリカはどんなに空高く摩天楼を築こうとも
血塗られた地の記憶を忘れることはできない。
そうだろうか?
微笑みとダンスとミュージカルは気休めだろうか?
Climb Ev'ry Mountain サウンド・オブ・ミュージック、70 mm Todd-AO カラーは 喪に服してないとでも?
「水源(fountainhead)」は何処へ?

冗談言っちゃいけない。すべてはこどものために、である。この世界はある。(この映画にこどもは一ミリも映らないだろう)
和解へ向け未来へあたらしい記憶をつくるために(問題ある発言)
争いは終わらないだろう、大地があるかぎり。
建築家はそんな大地に巨大な建物を屹立させるためだけにいるのではない。
こどもはそんな建物を見上げることはないからだ、彼らはパースペクティブのほうへ走りだすだろう。それにしてもビターであったこの映画。パトリシア・ニールは母親にもちたくないものです。

芸術的信念をつらぬく直情的な男(建築家 ゲイリー・クーパー)と、俗悪でそれを理解しないと言われる大衆社会の構図が、戯画的で意味不明。超人と畜群。モダニズムはそんなに馬鹿げた見識と構図で進んでいったとは到底思えないから、話はよく分からない。(20世紀の資本主義と芸術における建築の闘いの歴史はよく知らないが、こと建築に限っては、ある程度楽観的な良識を通奏低音に、そこそこ幸福な蜜月関係だったとしか思えないので。それにクーパーの建てる建築は実際外観は微妙だ)。
対立の構図があからさまな台詞で説明され(演じている役者が楽しそうじゃない)、現実感をなくし、けれども増村までの情動に到達することも、カメラのアングルや陰影でノワール的に画面を攻めまくることもなく、中途半端。劇場で失笑があったことは、この映画の不幸ですらある。激しさは伝わった。「小津映画は情熱的である」と堀禎一は言ったが(まさに『東京暮色』が挙がっていたはずだ)、ヴィダー(サイレント)を好きだった小津が小津であるように、ヴィダーもまた情熱的な人であった。

変な映画だった。
採石場での巨大な石の上に立つ女(パトリシア・ニール)と、汗まみれでドリルを打つ坑夫(ゲイリー・クーパー)の高低差と、サイズを変えあるいは変えずに、一目惚れの情熱的な瞳たちを、執拗に何度も切り返していく異様さ。まったく可愛くない!
燦々とふりそそぐ陽の熱射で、愛が枯れた後の世界を生きる野蛮な男女(太陽があるのはこの田舎の場面だけだが)。周りがやばいから、信念を貫いていると見えるゲーリー・クーパーが一番まともに見えてしまう不思議。途中から、文字通り市街地での戦争映画となり、情念の戦争映画とでも言えるか。かなりビターだ。

ヴィダーが好きだ、こんな映画が好きだ、なんて言える年齢がくるだろうか。おそらくこない。
これは限りなく馬鹿げた(ナンセンスな)情熱的な映画だ。わたしはこんな映画は観たくもないといまは言っておこう。
ヴィダーよ、きみは馬鹿じゃないのか。やりすぎだよ。少しは、商品に徹してくれ。クーパーに微笑みを!
マジメクーパー反対!
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