雅治

無花果の顔の雅治のレビュー・感想・評価

無花果の顔(2006年製作の映画)
1.5
 「無花果の顔」鑑賞。最近の低予算日本映画に多い、「奇妙な人たちの奇妙な行動(生活)」を描いただけの作品になってしまった。母親(桃井)の鬱屈による精神衰弱状態が癒されるのが狙いとすれば、こちらにとっては最悪な、「観客を癒さず、登場人物だけが癒される」映画で勘弁してほしい。残念ながら、「撮りたい映画」と「観たい映画」の差が出た一本

時代はいつ頃なのだろうか、父親(石倉三郎)の使っていた移動電話やウィークリーマンションを利用しているから80年代以前ということくらいしか想像できない。しかも門脇家では黒電話を使っているし、テレビもチャンネルもガチャガチャ式である。娘の結夢(山田花子)がパソコンで原稿作成している場面へ飛ぶと時間の経過もわかるのですが、母親(桃井かおり)が父の死からようやく立ち直るのにそれだけ時間を要したことが痛々しかったりもする

 登場人物も少ないのにも拘らず、家族の面々は不思議な会話を続けるので観客はちょっと距離を置かれてしまう。それぞれの奇妙な行動も、斜め上から撮るアングルや食卓でのわざとらしい切り替えしカットも、斬新ではあるけどテクニックのごった煮状態になっていると感じてしまうのです。また、突然幼少時の顔になる結夢の映像とか突然巨大な蟻のCGが出てきたり、最近の邦画でよく見かけるクリエイティブな映像もあります。もしかすると、この一貫性の無さはそのままファンタジックな桃井かおりの心情を表現しているのかもしれませんが、それだと花子ちゃんが置いてけぼり食らってしまいそうです。せめて「わたしはエリザベスよ!」などというギャグでもあれば微笑ましかったのに・・・

 全体的には、短編をひとつにまとめた脚本ということもあって中途半端に描かれているところも多かったように思います。個人的には石倉三郎と隣人との関係をもっと描いてほしかったですし、結夢ちゃんの戸籍も気になって欲求不満になってしまそうです。そうした疑問を投げかけると、「映画を体で感じなければだめよ〜」などと言う桃井かおり監督が夢の中に現れてくるかもしれません

 邦画でも女性監督がどんどん進出してきています。たまたま3本連続して女性監督邦画を鑑賞したことになりましたが、それぞれのちょっとした台詞のやりとりにおいても行間の意味が隠されているような繊細なタッチが感じられます。ただ、プロット自体に重きを置かないという特徴は、続けて鑑賞すると印象が薄れてくるという欠点もあるような気が・・・

 桃井かおりの初監督・脚本作品なのだが、死ぬほどつまらない。なんかこう言う世界のキタノ的模造作品は止めた方が良い。単なる自己満足で終わってる感じ。とにかく何が辛いかというと、映画としての流れが全くないことで、奇をてらった演出が裏目に出まくりで、整合性もないし、観ていて何がいいたいかがよくわからないし伝わらない。更に、出演者が何を話している聞き取れない。普段から何を話しているかわからない桃井かおりが、更に輪をかけて何を言っているかわからない。また、その会話の内容も意味不明で、まあ確かに不条理を狙ったという考えもあるが、自分にはさっぱりわからない

 俳優が監督をすると、どういうわけか出演者の演技で勝負しようというのが多く、特に監督=出演だと本人の演技がやたらめったら長くなってしまう。この映画も例外ではなく、他の出演者に比べ桃井の長回しの演技が長い。そしてこれが効果的でないのが辛い。こういうのを「桃井ワールド」だと言うのは簡単だが、それは笑えない映画を「脱力系」というのと同じである