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ペーパー・ムーンのmasatのネタバレレビュー・内容・結末

ペーパー・ムーン(1973年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

アメリカン・ニューシネマは、やはり道である。それは人工的な(あらゆる意味で老朽化した)スタジオからの離脱を意味し、生々しい生と性の謳歌を意味した。なので、ニューシネマと一括りにされた作品群は、いつからか“ロード・ムービー”というジャンルに取って代わっていった。
そして登場人物は男と女に始まり、男と男の、女以上に強烈な結びつきを放っていった。ゲイとも言える、今風に言うとブラザーフッド、そんな関係が男女の悲恋以上に“哀しい”と知り、階級や人種なんて関係なく、映画が描く人間の関係性が一気に拡がった。

さて、ピーター・ボグダノヴッチは流石である。

話は逸れるが、
鬱屈した精神からかつてない映画は生まれる、と信じている私にとって、ボグダノヴッチの私生活は、異様、だ。こんな優しい映画を撮る男が、何故にしてそうなった?と思わせる。だからこそ、凄みのある映画を撮れるのだ、と納得できる人物なのだ。

71年、アメリカン・ニューシネマを終わらせる為、65歳の老人と爆走爆裂消滅野郎と共に、その名も『ラストショー』と言うタイトルを掲げ、ニューシネマを葬ろうとした男ボグダノヴッチが、本作では、またしても果てしない道に出た。どこまでも続く道を行くのである。(道以上に地平線をも強調するカットが続出)

しかも、男と女?、いや、男と男?、いや、男と少女、なのである。しかし、その相互のやり取りは、精神年齢はまるで同じ、その上、ソリが合わないとくる・・・まさに二人の人間がそれぞれを理解しようとする道行、これぞこれまでのニューシネマらしい骨格を持ちながらも、敵は“9歳の少女”なのである。
さあ、ボグダノヴッチが拡げようと苦心した人間関係の構図、そのリレーションシップが痛快に長く続く道の上で始まったのだ。

さらに痛快なのは、9歳の少女が道中、唯一仲良くなるのが、15歳の黒人の召使い少女。彼女も大人以上に、人生を受け入れ、まるで達観しているかの様な振る舞いを見せる。大人以上の子供がゾロゾロ登場し、大人では成し得ない思慮深い目線を物事に向けるのである。
また、少女二人の別れは、黒人少女を自由に羽ばたかせると言う、気が付けば!まるで“奴隷解放”の様相を呈するのがこれまた痛快なのである。

さて、インチキイカサマ師がアメリカ大陸を横断し、9歳の少女を親戚の家へと“護送”する旅は終わりを告げる。
二人は本当の親子であったか否かなんていうサブプロットは、もうどうでもイイ。
ラストカットを見よう。
(同年の『さらば冬のカモメ』の名優ランディ・クエイドを殴り倒し)手に入れたポンコツ車に乗って、走り出す二人のロングショットだ。
これまた果てしなくどこまでも続く道、その先には一直線の地平線があり、いま陽が沈もうとしている。ポンコツ車は、坂を下り、やがて登る。地平線へ沈む太陽に向かって、まるで空高くへと向かうかの様に、飛び立つかの様に、上昇を描きながら走り去っていくのである。
このラストカットこそ、その後の第二段階へとアップグレードするニューシネマの姿なのだ。
男と少女。長く続く道は、やがて空へと舞い上がるであろうと信じる、力強いラストカットを持って、ボグダノヴッチは本作をここに締め括るのである。
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