このレビューはネタバレを含みます
異形という理由で疎外され、誰からも愛されない者…。
先日「ジョーカー」を見た後、ふとそんな言葉が浮かびました。
その元祖となるのがこの「フランケンシュタイン」ではないでしょうか?
この映画もとても悲しいお話です。
世間一般に広まった「フランケンシュタインの怪物」の有名なビジュアルイメージは、この1931年のボリス・カーロフ演じる怪物から。
恥ずかしながら、初めて見ました。
(私が子どもの頃に見た記憶があるモノは、カラー作品だったので、シリーズの一本だったのでしょう。この作品が、たった70分ほどで白黒映像だとは知らなかった。)
この作品は人間側から見ると、怪物の存在は、SFであり、ホラーです。
人間を幸福にするはずの科学が、行き過ぎると逆に人間を苦しめ、恐怖に襲われるという皮肉を描いています。
しかし、生み出された怪物の視点に立つと、「なぜこの世に生を受け、何のために生きるのか?」と、私たちと同じようにアイデンティティを問う普遍的な物語として見ることができます。
イジメられる怪物の立場は、人種差別を含んでいます。
人間は自分と違う者と対峙すると、時として、歩み寄り、理解しようとせずに、恐怖感から関わりを拒絶し、迫害する。
さらに、生まれたばかりで赤ん坊と同じ無垢な存在である怪物が、なぜ邪悪な存在に変貌するのかを考えると、生育環境、児童虐待、ネグレクトなど、子育てや教育問題をも含んでいます。
この作品は今見ても、現代社会に犯罪や悪が生み出される理由を考えるヒントが含まれていると思うのです。
私はかなり昔に原作小説を読んだことがあります。
原作では、怪物を生み出した科学者の後悔や怪物の高い知能による苦悩が描かれますが、この映画は強調すべきところを残して、とても上手に省略していると思いました。
フランケンシュタイン男爵の息子ヘンリーは人里離れた研究室で研究に没頭している。(原作ではヴィクター)
心配する婚約者は彼の師である教授と嵐の夜に研究室へと向かう。
一見、富裕層のワガママに見えます。
そこで繋ぎ合わせた死体を蘇生させるヘンリーの狂気の研究を目の当たりにする。
雷の電気によって、怪物に生が宿り、自らの研究の成功に狂喜乱舞するヘンリー。
科学者ヘンリーは、この実験に何を求めていたのでしょう?
いまだにその根拠が、私には疑問です。
死者から兵士を作るのか?
人体蘇生や不老不死を探るためか?
新たな生命を作るという神への挑戦か?
目がイッている科学者は、狂信者のようでとても恐い。
死体を蘇生させる行為は、子を亡くした原作者メアリー・シェリーが我が子を生き返らせるために、したかった行動だという説があります。
そう考えると、子を亡くした母親の気持ちに同情してしまいます。
おかしくなるのも致し方ないのかと。
そして死者を蘇生させるだけならば、死体を繋ぎ合わせる必要はありません。
新しい生命を生み出すというのは、品種改良、バイオテクノロジーをも想像させます。
それがこの映画の時代、引いては原作小説が書かれた19世紀の時代に考え出されたというのは、やはり驚きです。
つぎはぎだらけの怪物は、子を亡くした原作者メアリー・シェリーの傷ついた心を表している説があります。
この映画の怪物のビジュアルは、後年に影響を与えただけあって、やはりインパクトがあります。
怪物は大きく、強く、醜い。
原作者の子を亡くした傷心の大きさ、強さ、きっと周囲に当たり散らし、影響を与えただろう後悔や恨み、疑心暗鬼の醜さを具現化したかのように感じます。
科学者ヘンリーは、怪物を誕生させましたが、その後を考えてはいません。
育てるという気がありません。
殺そうとまでする。
これは現在でもニュースで見る、育児放棄、新生児の死体遺棄にも通じます。
生み出されたモノは原作者自身の醜い心であり、所詮愛されるモノではない。
しかし、新しく誕生したモノの心は、赤ん坊のように無垢であり、全く罪は無い。
女性のアンビバレントな感情を、見事に表している設定です。
ヘンリーの助手が怪物を躾けようとして鞭で打つ。怪物を怒らせて、助手は殺される。
差別による疎外や迫害が人間を歪め、やがて犯罪や悪を生み出していくという構図がここにあります。
助手の死に、自責の念に駆られたヘンリーは婚約者の説得に研究を止め、実家の屋敷へ戻る。
これがなかなか豪華な屋敷。
これは原作者の実家を表しているのかもしれません。
メアリー・シェリーは駆け落ちして、貧しい詩人と結婚した人。
実家を飛び出した罪の意識か、怪物が自宅に向かいます。
ヘンリーに観察を任せられた教授を無残にも殺した怪物は研究室から逃走。
逃げた怪物は幼い少女と出会う。
無垢な少女は怪物を怖がることなく、湖に花を浮かべて一緒に遊ぼうとするが、何を勘違いしたか怪物は少女を抱くと湖へポイッと放り投げる。
自分の行為に恐怖しワケが分からなくなり
怖くなり逃げ出してしまう怪物。
水面に花を投げる少女を真似て、自分もと少女を抱きかかえ捨てる。
正しく導いてくれる者がいないと、命の大切さはおろか、脆ささえも分からない。
教育問題にも捉えることができる、哀しくて恐い象徴的なシーン。
その頃、男爵のお屋敷ではヘンリーと婚約者との結婚式の準備が進んでいた。
賑やかな屋敷に侵入した怪物は式の準備中の婚約者に襲い掛かる!
婚約者の悲鳴に気づき、騒ぐ人々の声に怪物は逃げ出し、婚約者は無事。
そこへ少女が殺されたとの知らせが!
更に教授も殺され、怪物が逃げたと怒り心頭の市長は男たちを集めて決起する。
誰だか知らないが許せない!と。
(原因を造ったのは、元はといえば男爵の息子ですが…)
自分が決着をつけると意気込むヘンリーは、討伐隊に加わり山へ移動。
遂に怪物と対峙するヘンリー!
しかし力の強い怪物に捕まり、山頂の風車小屋へと連れ去られる。
すぐに風車小屋に殺到する討伐隊。
屋上ではヘンリーと怪物が掴み合いになっていてヘンリーが落下!
しかし風車に当たったため、地面に落ちるも大きな怪我はない。
暴徒と化した討伐隊は怒りに任せて風車小屋に火を放つ。
群衆たちは迷いなく怪物を追い込み、迷いなく怪物を殺しにかかります。
そこには知らない者、異形の者への恐れや不安があります。
そしてその群衆の迷いのない一体感は彼らを没個性へと押しやっています。
しかし、彼ら自身はそのことに無自覚です。
誰も異論を唱えようとしない。
無自覚な疎外の恐ろしさを感じさせます。
人は知らないモノには脅威を感じ、それを排除しようとするんだな、と、差別意識がありありと描かれています。
怪物は崩れる柱の下敷きとなってしまい
身動きできないまま炎に包まれて、崩れ去る風車小屋と運命を共にする。
燃え盛る風車小屋は、まるで差別による憎悪の炎のようで目に焼き付きます。
その炎に包まれ、断末魔の叫びを上げる怪物の姿は、やはりとても悲しい。
イジメられた末に、殺されるのですから。
(原作小説では、科学者は北極で死に、怪物は北極点で自らを焼いて死ぬために北極海へと消える。)
映画のラストシーンには驚きます‼️
ここは、この映画独特のもの。
屋敷に戻ったヘンリーを婚約者が看病する。
その仲睦まじい姿を見た男爵は一安心して
ワインで乾杯するのです。
怪物を倒して、息子も無事。めでたし、めでたし、ハッピーエンド❗️といった感で終わります。
「おいおい!嘘だろう?」と現代人の感覚では、ツッコミたくなります。
怪物に罪がないとは言いません。
しかし、生命を弄ぶように怪物を誕生させ、もともと無垢だった心を歪めて、虐げた上、殺したことに何の罪の意識も感じないなんて❗️
自分たちと違う者は人間ではないという差別意識が感じられます。
何の罪悪感も感じられない。
1931年当時の人種差別の実態ではないでしょうか?
それともそれを嘆いていた製作側が、皮肉として意図的に入れたシーンでしょうか?
あまりにあっけらかんとしたラストですが、その裏に隠された差別意識を思うとゾッとします。
フランケンシュタインってこんな話だっけ?と思う方も多いとは思いますが1931年版はこんな話です。
原作小説を読んでいると一層理解が深まるかと思います。
小説を読む時間のない方は、映画「メアリーの総て」や、比較的原作に近い、ケネス・ブラナー監督版、ロバート・デニーロ主演の「フランケンシュタイン」を見ることをお勧めします。
怪物のことを考えると、なんて悲しい映画なんだろうと思いました。
時代を感じる特撮や演出は古臭いかも知れません。
また原作小説とは物語が大きく違いますが、テーマ性をドラマチックに残した名作だと思います。