タケオ

フランケンシュタインのタケオのレビュー・感想・評価

フランケンシュタイン(1931年製作の映画)
4.2
 ジェームズ•ホエールが監督を務めた本作『フランケンシュタイン』(31年)は、イギリスの小説家メアリー•シェリーによるゴシック小説の古典『フランケンシュタイン』(1818年)の初の長編映画化作品である。メイクアップ•アーティストのジャック•P•ピアースが造形し、俳優のボリス•カーロフが演じた「フランケンシュタインの怪物」の圧倒的なビジュアルや存在感には、今鑑賞しても十分に驚かされる。1910年にもJ•サール•ドリーによって16分の短編映画が制作されているが、平らな形をした面長な頭部、首に突き刺されたボルトといった一般的に知られるような「フランケンシュタインの怪物」のイメージを決定づけたのは本作である。このキャラクターを見るだけでも、本作は十分に鑑賞する価値のある作品だ。
 もちろん、本作の素晴らしさは「フランケンシュタインの怪物」というキャラクターだけに依存するようなものではない。上映時間71分と比較的短い作品ではあるが、そこにはあまりにも多彩な思想や哲学が詰め込まれており、見るたびに受け取るメッセージが全く異なるのもまた本作の大きな魅力である。本作は進歩しすぎた科学に対して警笛を鳴らす作品でもあり、そして「フランケンシュタインの怪物」という「子供」に対してのネグレクトを描いた作品でもある。もちろん、その他にもあらゆる解釈の仕方があるだろう。どの側面から見ても本当に素晴らしい作品である。しかし何度鑑賞しても僕は、「フランケンシュタインの怪物」の抱える「孤独」と「疎外感」にこそ強烈なシンパシーを感じてしまう。それは何故だろう。
 個人的に本作で最も涙を誘われるのは、1人で彷徨う「フランケンシュタインの怪物」が湖のほとりで少女と出会う場面である。その凶暴さのせいで親となるフランケンシュタイン博士からは見捨てられ、醜い容姿ゆえに村人たちからも怪物呼ばわりされ、孤独に彷徨うしかなかった「フランケンシュタインの怪物」を初めて受け入れたのは、純粋無垢な少女だった。「フランケンシュタインの怪物」は少女とともに、摘んだ花を湖に浮かべる遊びをする。心の底から楽しそうに。しかし「フランケンシュタインの怪物」は、花と同じように少女を湖の中に放り投げて彼女を溺死させてしまう。「フランケンシュタインの怪物」は、ただ少女を楽しませたかっただけだった。だが、善と悪、生と死という価値観を理解できていない「フランケンシュタインの怪物」は、少女が溺死するという結果を想像することができなかったのだ。「人殺しの怪物」として、松明を持った村人たちから追い詰められていく「フランケンシュタインの怪物」。確かに「フランケンシュタインの怪物」は少女を殺してしまった。しかしだからといって「フランケンシュタインの怪物」は、本当に断罪されるべき存在なのだろうか。
 本作で巻き起こる一連の悲劇は、人間の身勝手さゆえに引き起こされたものばかりだ。「フランケンシュタインの怪物」は望んで生まれてきたわけではない。身勝手な理由で生み出され、身勝手な理由で見捨てられ、そしてついには「人殺しの怪物」となってしまったのである。故に「フランケンシュタインの怪物」が「神」という概念と衝突することははない。一体何をどうすればいいのか?何のために自分は生きているのか?「フランケンシュタインの怪物」は常に「実存主義」との衝突を余儀なくされる。そう考えた時、ここで1つの疑問が生じる。「人間」と「フランケンシュタインの怪物」、両者の間に本質的な違いなどあるのだろうか、という疑問だ。
 僕たち人間は、誰1人として望んで生まれてきたわけではない。時代の狭間に勝手に生み落とされ、右も左もまるでわからない。虚無から生まれ、生という名の拷問の果てに、再び虚無へと還る。いくら綺麗事やおためぼかしで取り繕ったとしても、結局はそれが真実だ。「何のために生きているのか?」人間である以上、この疑問から逃れることはできない。「フランケンシュタインの怪物」は、そんな人間という生き物の姿を戯画化した存在なのだ。「生きるとは何か」という疑問にどこまでも真摯に向かい合った作品だからこそ本作は、今日もまた僕の孤独な心を掴んで離さないのだろう。
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