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レイジング・ブルのペジオのレビュー・感想・評価

レイジング・ブル(1980年製作の映画)
4.4
「決してダウンしない男」とは「何者に対しても地に膝を着けず、かしづかない男」か?

スコセッシはそれはもう大好きな監督だし、この人の映画で「映画って面白いんだなぁ」と教えてもらった「義理」みたいなものも勝手に感じているのだが、どういう訳かこの映画は観てなかった
傑作を連発してた時期の作品だし、何よりもデ・ニーロとのタッグなのに…
デ・ニーロが持ち込んだ企画に当初はスコセッシも乗り気でなかったと聞くので、もしかしたら僕が観てなかった理由もそれと同じかもしれない(「ロッキー」に作品賞と監督賞を獲られた事で忸怩たる思いもあったのかもしれないが。「ゴッドファーザー」に対しての「グッドフェローズ」といい、結構嫉妬や反発のモチベーションで映画を作る人なのかな。だったら余計好きだわ。)

定期的に製作される「ボクシング映画」
個人的には世間の需要ほどは興味の持てないジャンルではある(「ロッキー」も一作目しか観てない。)
スポーツであるが故に「勝ち負け」がメインのエンタメになってくるので、主人公への「感情移入」が過剰になり過ぎるというか…「人情話」に偏った作風になってしまう傾向がありませんか?…みたいなイメージを抱いていたからだろうか

だが、この映画は違った
「ボクシング映画」ですらなかった
スコセッシがいつも撮ってる「ある個人についての映画」であり、「信仰と暴力の映画」だった

何分素人なのでアレですが、ボクシングって、相手がいて「二人」でやるものなんでしょう?
しかし、この映画の主人公ジェイク・ラモッタはどうも「一人」で闘っているフシがある(OPのシャドーボクシングは象徴的。)
拳を使った「対話」をこそ「ファイト」と呼ぶのであって、何処までいっても「独り言」でしかないその拳は「暴力性」を大いに伴う
彼のファイトスタイルによるところも大きいが、殴ってる時も殴られてる時も「気は済んだか?」と声をかけたくなるような荒々しさと痛ましさ(まさに「怒れる牡牛」)

その結果飛び散る汗や血が美しい
モノクロの映像はフィルムの保存の観点から選択されたそうだが、映画の質を上げる効果も確実にあった
ギリシャ悲劇的な格調高さと「ノワール」的な美しい光と闇のコントラスト
「一人の女のせいで身を崩す」という意味では、「ノワールっぽさ」は特に強く感じたのだが、これはあくまで「っぽさ」である
「自分が信じられなくなる」というのがノワールだと思うが、ラモッタは「自分だけを信じていた」のだろう
だからこその他人に対する猜疑心であり、それ故に妻を「ファム・ファタール」扱い(映画はラモッタの内面を描いているのかもしれない。)
てめえで勝手に作ったストーリーに、てめえで勝手に陥っていくの男の悲哀からは、スコセッシの名作に共通する「孤独」の二文字が浮かぶ

八百長やTKO等の「判定」に翻弄されてきたラモッタからは、「神に翻弄される人間の葛藤」というスコセッシ生涯のテーマを感じずにはいられない(判定を告げる際のマイクが「天から降りてくる」様に撮られてるのはまさにスコセッシ的)
「険しい道ばかり選ぶ」殉教者めいた彼はリングの上で存在すらあやふやな「神」と闘っていたのだろうか?
最後のシュガー・レイ・ロビンソン戦で降り下ろされる拳に只々耐えるラモッタの姿は罰を受けるという贖罪か、あるいは神への反抗心混じりの存在確認か
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