このレビューはネタバレを含みます
これらは現実か空想だったか?
ラストにゾワッとさせられる、不思議な感覚に陥るサスペンス映画。
出演者たちの言葉の通り、この作品に明確な答えを求めるのはナンセンスであると思う。
それを踏まえた上での解釈を行う。
全ては主人公の作家、サラによる想像であったのではないかとわたしは思う。
ロンドンで執筆をしていた頃は、単調な日々で刺激もなかった。
明るく開放感のある南仏に滞在することで、彼女自身の心が癒やされたと同時に、アイデアが浮かんだのであろう。
社長の娘ジュリーが現れたところから、サラの想像の世界中で繰り広げられたことなのではないだろうか。
彼女は自ら作ったサスペンスストーリーに入り込んだ気持ちとなり、自分とは正反対の若者のキャラクター性を見出していく。
だんだんジュリーを庇うことになったのは、自分と真逆の性格の彼女に、共通点を見出していたからなのだろう。
これは物語の構想を練るうちに、サラに芽生えた感情と言える。
また、サラが一緒に過ごしたジュリーが架空の人物であると推測する理由に、作中での鏡と水の用いられ方が挙げられる。
例えば、必死にタイプするサラの姿が鏡の中にうつる。
また、サラを監視するかのような部屋に飾られた十字架。これも鏡にうつる。
彼女が十字架を外す様子も鏡にうつる。
そして水。主にもちろんプールのことである。
サラもプールで泳ぐが、ジュリーがプールの中で泳ぐシーンの方が圧倒的に多く、そのシーンが印象的である。
泳ぐ姿が水面下にうつるだけでなく、ジュリーがプールサイドで横たわる姿が水面にうつる。
この映画において、鏡は真実をうつし、プール(水)は幻想へ誘うモチーフなのではないか。
ちなみに鏡にジュリーがうつることはなかった。
ラストに、あのジュリーが社長の娘でないことにサラは気が付くのだが、彼女には驚きというよりも安堵を感じる表情をしていた。
「あぁ、あれはやはり私の想像だったのね…」とでも言うような。
ラストシーンにおいて、南仏の別荘で、ベランダに立つサラと、プールのそばからジュリーが手を振り合う。
ジュリーと社長の実際の娘が交互にうつる。そこで観客をさらに混乱させるわけだが、空想ではジュリーとだったけれど現実ならあの子と別荘で過ごしていたのか、とサラは思い描き、自分の想像への余韻に浸ったのだろう。
サラの想像の世界であったとわたしは解釈したが、これは完全に個人的な、それも素人の解釈なのであしからず…。
とはいえ現実と空想を入り混ぜ、観客を混乱へと導き、作家つまり映画監督も含めた作り手の苦難が描かれているという点で、オゾンらしさがここでもやはり発揮されていた。