柴又慕情

イレイザーヘッドの柴又慕情のレビュー・感想・評価

イレイザーヘッド(1976年製作の映画)
4.3
仮に「赤ちゃん」というものをポジティヴに具象化したのが「パンパース」のコマーシャルだとすれば(?)、ものの見事にネガティヴに具象化してみせたのがデヴィッド・リンチの『イレイザーヘッド』だと言えよう。私たちは赤ちゃんを「天からの授かりもの」とする物語をしぜんに採用しているけれども、実はその物語性を漂白してしまうと、受胎とその告知というのが偶然的かつ唐突で、しかも多分に理不尽なものをはらんでいることが明らかとなる。
内田樹はアメリカが「子供嫌いの文化」であることを映画の構造分析をとおして証明しているが(『街場のアメリカ論』)、同様にして赤ちゃんもまた、あちらの国では「邪悪でかわいくない魂」として形象されることがあるようである(まさしく『ボス・ベイビー』の世界観)。
すべて赤ちゃんというのは、所かまわず泣きさけび、糞尿を垂らし、発熱するものだ。そしてそのような姿が私たちを不安にさせるのは、じぶんもまたかつてその状態のまっただ中にあったような、言語と行為の獲得以前の根源的なあるムードを私たちに呼び覚ますからである。すなわち、「じぶんひとりでは何をどうすることもできない」という、世界にたいする圧倒的な無力と不能の感覚を。
この映画の終局で、ヘンリー(ジャック・ナンス)がこの最恐にうす気味悪い畸形の赤ちゃんをハサミでもって裁断する、というシーンは、精神分析学的にみてかなり合理的な筋立てになっている。フロイトの解釈を用いれば、ハサミとは男性器の象徴となるわけだが、ヘンリーは来るべき息子の去勢コンプレックスに先んじて、みずからの手で息子を殺してしまうことを選択するのだ。そして両頬を奇妙に醜く腫らせた女性との抱擁シーンというのも、まだ赤ちゃんでありたい、つまり、「母なるもの」を誰からも奪われまいと願うヘンリーの歪んだ幼児性願望のメタファーとして見事に機能しているのである。