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三月のライオンのclaireのレビュー・感想・評価

三月のライオン(1992年製作の映画)
5.0
びっくりした。こんなに審美的な感性で美しいと思える映画が日本にも存在したこと。計算された構図や間、さりげないユーモアがエドワード・ヤンを思わせるが、それくらいこの作品が映画という形式で真摯に芸術を達成してくれていることが嬉しくてたまらない。
ひとつの解釈。この映画においての”写真”というものの存在は重要。ポラロイド写真のスライドで始まる物語。写真というものの性質は過去が存在していたという記録・記憶であり、そこにそれがあったという事実を嫌でも残してしまう残酷なものであるということ。兄妹というふたりの過去や関係性を写した記憶である写真を海に流してしまう彼女は再びポラロイドを手に取り、水に浮いた写真たちをフレームに捉えるがシャッターを押してこの世に残すと決めたイメージは遠くに見える水平線だった(シャッターを押すという行為に偶然性など存在せず押すというのは能動的な行為でしかない)。それ以来、ハルオの帽子にはそのイメージが文字通り付き纏う。それは彼女が2人の関係性を兄妹として捉えることを捨てたのだととれるが、それは「思い出した」と言ったハルオが全く思い出していないと彼女が悟った以上、2人の関係を規定するものがもはや彼女の意識しかなく、それを葬ることで新たな関係性として捉え直したのかも。ハルオはというと、浴室の鏡の代わりに貼られていた自身のポラロイド写真を見つめていたシーンが印象的だ。彼は帽子とサングラスを彼女に与えられて鏡を覗いて以来、新しい自分を獲得したのだ。それ以後、彼が生身の姿で鏡を覗くたびに鏡は無残にも破壊されてしまう。それは現在の姿を残酷に映してしまう鏡というものが、何かもしくは誰かの意思に従っているようにも抗っているようにも見える。そしてハルオが最後に鏡を覗くのは、感情が溢れ出るようなセックスの後である。恋人としての2人が住む家を出る前に、まじまじと自分の顔(現在)を見つめる彼は、彼女に与えられた帽子とサングラスを再び身に付けて、兄妹としての2人が過ごしていた家へ戻るのである。それは彼が何かをすでに思い出していて、それでも彼女に与えられた役を演じて彼女を愛することに尽くすと決めたことの示唆なのかもしれない。
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