殯の森の作品情報・感想・評価・動画配信

「殯の森」に投稿された感想・評価

映像が語ってくるパワーがやはり段違いな気がする。
小説だったら地の文に託すところを、説明ゼリフに全く置き換えずにすべて映像に託し切っているよう。
セリフは少ないけど映像が雄弁だから、沈黙が多い作品でも重厚さを感じる。
一神教の世界観で死が神様のもとに行くことなら、日本人にとっては自然に還ることなのかも。
神社はもともと森そのものを社殿としていたっていう起源にもしっくり来る。
人はどう死ぬかではなくどう生きるかだと言うけど、この映画ではある男性が死に向かう様子を通して生きてきた様子を写し撮っている。
真子さんに応えることが生き様であり、真子さんのもとへ行くことが死なんだな。
大切な人にもう一度会えて、なおかつ来たところへ還るのであれば、怖いのは別れであって、死は恐ろしいものではないのかもしれない。
真千子にとっては辛い別れがあったようだけれど、いつかまた会えると思えたんじゃないか。
Roca

Rocaの感想・評価

3.8
殯とは、死者を葬る前に別れを惜しむこと、棺を安置する場所を意味している。
息子を亡くした介護施設の新しいスタッフ・真千子と妻を亡くした認知症の男性・しげきが主人公である。
ある日二人は殯の森を彷徨うことになる。その先にあったものは・・・。

台詞や説明が少なく、観る者の解釈に委ねられている部分が多い作品。
「生きること」「死者を思い続けること」について考えさせられた。
死者を弔うとは、自分自身の救いのためでもあるのだと思った。
深い緑の森、風が吹いていた。
奈良公園のすぐそばに、主演うだしげきが店主をしているカフェがある。店内にずらりと並ぶ本は自由に手に取っていい。僕の訪れた冬はこたつもあった。店主は映画に出演したことなどすっかり忘れているかのように注文のココアを無言で出してくれた。
随分前に行ったきりなので、今はどうなっているのかわからない。
小学生の頃よく母と2人で電車に乗って奈良を散策していたのを思い出す
◯豊かな自然の中の施設における、大切なひとを失ったもの同士の老人と介護士の話。カンヌ獲った作品。

◯以前に鑑賞した河瀬直美の「光」でも感じたことだけど、彼女の体温というか脈拍みたいなものが、じっとりと伝わってくるんだよね。

◯引き算ができているというか、きちんと蒸留されているというか、とにかくピュアなストイックさが醍醐味。


追記
◯オープニング・・・こういうオープニングにめっぽう弱い。もっと長回しでも良いくらい。緑も風もまた乙ですな。

◯仮に河瀬直美の写真家としても面白そう。花を添えるカットなんかも女性らしくてね。
映像の美しさは分かる。ただ、自分にとってもそう遠くない未来という予感があるからこそ、まだ見たくないものを無理矢理見せられているような息苦しさが伴い、いずれは直視しなくてはならないことと知りながら、自分にまだその度量が無いことを思い知らされるきつい作品だった。多分、世間一般的な評価を知らなければ最後まで鑑賞できずに途中でリタイアしたと思う。
eriiko

eriikoの感想・評価

-
凡人には理解できなかった…。でも尾野真千子を発掘したのは偉業。
殯(もがり)は日本の古代に行なわれていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでの期間、棺に遺体を仮に納めて安置し、別れを惜しむこと、またその棺を安置する場所を指す。とウィキペディアに書いてある。ラストに意味が説明されるが、何のことか最初わからない。認知症の妻を亡くした老人と子供を亡くした女性が森の中を彷徨い、心が浄化していく話だ。(殯(もがり)は、喪が明ける意味も)
死者を見送るために必要な出来事だったのだろう。河瀬作品に出て女優になった尾上真千子。このときは、売れない女優だったと思いますが、のちに朝ドラで人気者になるとは当時は思えなかった。
こういうアメニズム的な話は、フランス人にうけると思いますが作品を見る限り受け狙いはない。本寸法で行くのが大事だなと思う作品ですね。
2020.09.10 DVD◇090
tsura

tsuraの感想・評価

4.2
ふと。


尾野真千子という女優を眺めたくなった。

私はこの人の顔立ち、立ち姿、演技、好きである。

美しいのに何処か図太い迄の腰を据えた様な迫力も持っている。

そして河瀬直美監督の作品もご無沙汰であった事と何より2人は奈良県出身(と言っても奈良市と西吉野村(今は五條市?)なので距離は離れているけど笑)で、私自身が生まれ、住んでいるこの地を描きカンヌで賞まで受賞していながら何故か敬遠していた今作に今頃、まさに湧き出る泉の様に興味が湧きだした。

そうして漸く見たわけだがこの作品の持つ静謐な中に燃え滾るような生と死に備わる力、意味が混在してる作品だったとは思ってもみなかった。私は単に認知症の老人と介護士の交流程度に構えていたが、これはあまりに失礼な見地だった。


人は生まれいつか死ぬ。

そこに介在する生きる意味、そして諸行無常。

世の刹那に於いて、生死はまさに表裏なのだと、2人の行動を通して生きるとは、死ぬとは、を考え抜かされる。
という表現がそもそも正しいものなのか、その領域が実はあまりにも曖昧なのではとこの作品を見ると思ってしまう。

何というか適切な言葉が見つからないが生きる世界も死後の世界も単に「チャンネルが違う」と言えばいいのだろうか。

だからあの山奥で展開される話はある種のスピリチュアルな世界に踏み込んだ生者の体験談のようだった。


先に妻を亡くし未だに影を追い求める老人。

子供を失い生きる希望を失った母。

境遇も生きてきた世界も違うのに、この奈良の山奥でその隔てていた世界や領域は取り壊されていき対峙していく。

その対峙。

劇中は様々な描写を通して、相反する姿をいずれも片方から見せて浮き彫りにする。

少ない余生を送る老人達とあまりにも鮮明な緑、木々。

老人が妻が居るとされる山奥を目指す道中
でかぶりつく様に食べる新鮮な西瓜🍉
(食べる=生の実感、執着)

山林の闇夜、冷え切った体を尾野真千子が体当たりの演技、トップレスになって寄り添って老体を暖めるその行為はまさに生きることに付き添う煩悩やエロスという感覚(つまり性)

尾野真千子のど迫力の慟哭シーンが頭から離れないが、その時に見せる老人と介護士の間を挟む岩清水(小川)はまさに三途の河で2人は生きながらにしてあの世とこの世、或いは死者と生者の今生の別れを見ているようでもあった。

そして、あまりにも神聖な森からは想像もし難い程に人を脆弱にさせる自然の猛威。


しかし不思議な縁とはまさにこの作品の様なことを指すのか。

2人はその哀しみの先に、淡い奇跡の様な瞬間に触れる。

生者が死者と相対する事は現実的には起きない。

しかしこの作品が語るそもそも殯(日本の古代の葬儀儀礼で、死者を本葬するまでの残りの時間、棺に遺体を仮に納めて別れを惜しむこと)の刻に最愛の人と向き合うそれはあまりにも尊い。

そして、この作品はストーリーの初めから
2人にとっては殯だったのではなかったのか。あのオルゴールの音色は"繋がる"その瞬きではあったのではないだろうか。

この作品は2人の"生きる"を通してそれを繊細に描いたのだ。

彼の者達も仏となってあの光の先で待っていてくれてるのだろうか。

自分の大好きなあの人達と会いたい。

そんな寂しさを心の何処かで抱えていたのだろう。

観賞後、私は感動と同時に不思議な温もりにも触れた様な気がした。

生と死を映画という媒体に凝縮したカルマであり、あまりにも尊い経験。


命を、愛をありがとう。

このレビューはネタバレを含みます

尾野真千子が真千子という名前で介護士の役をやる。
真千子と自分の名前を書いた習字を、隣に座っていたその施設の老人のしげきに“千”という文字を塗り潰される。
このシーンを見たとき、あれ? これって千と千尋なの? とぼんやりと思っていた。
そんなことはないだろうと思いつついたが、観進めていくとあながちそんなことないこともない気がしていた。
というのも最初はあくまでも人間社会の現実のなかでのドラマであったが、中盤以降、森に分け入っていくにしたがって、それが現実なのかファンタジーなのか、もしくは心象風景なのかが曖昧になってくる。
現実の生活のなかにある心の問題を“森”という象徴で比喩として表して、そのなかに分け入るという様は『千と千尋の神隠し』に通じるところがないわけでもないのかなと思っている。

この映画は大切な人を亡くした人がその死を悼み、その痛みから解放されるまでの物語なのだろう。
しげきは妻を、真千子は子どもを亡くして、その呪縛から逃れられていない。
その二人がどう死と向き合っていくのかという映画だ。
しかし後半は抽象性が非常に高いので、この映画をどう解釈するかは観る側に委ねられている部分も非常に大きい。
森の中のもので象徴的に比喩しているので、全くわからないということもない。

ただし川のところの表現などは、これは僕が日本人だから解るだけで文化の違う外国の人々だと解らないのだろうかといろいろ考えたりもする。
しかし川は“三途の川=死”の象徴と、(夫と真千子の話の内容や表現から推測するに)真千子が“川で子どもを亡くしたこと=死”のダブルミーニングになっているのだろうから、文化が違くても多少は伝わるのだろうか。

象徴といえば、この映画では色も大事な要素になっている。
この映画は全体的に色味が少ない。
人物と人工物以外は緑だ。
舞台が森となる後半には画面はもうほとんど緑だ。
人が緑に呑まれていく映画。
その緑の中にときどき赤が印象的に使われることがある。
この赤というのは生命や本能の象徴なのだろう。
食べるという行為を割れたすいかで表したり、温め合う行為を火で表したりしている。

またこの映画を観る上で大事になってくる要素がもうひとつある。
それは真千子に主任の言った
「こうしゃなあかんということないから」
という台詞である。

大切な人の死を引き摺る彼らは、死した人と過ごした過去やその人の存在に縛られている。
それは彼らにとっては“こうしゃなあかん”ものたちである。
忘れないことでいつまでも彼らのなかに留め置かれる存在だ。
それを同じ傷を持った人に出会って、しげきは真千子に真子を見出し、真千子はしげきに夫と子どもを見出して、こうしゃなあかんものたちの代償にしていったように僕には感じられる。
そしてお互いにお互いの荷物を背負わせて、徐々にお互いそのものが生きる支えになっていったように感じる。

しかし背負ってきた時間の長さは変えられない。
長く背負いすぎたしげきは彼がいけるところまで辿り着き、“こうしゃなあかん”を抱いて共に朽ちていく。
真千子はその姿を見届けることでしげきからその生き様と、彼との思い出を彼女が生きていくうえでのささやかな希望として継承したのだと感じた。
最後のオルゴールはその象徴であるような気がする。
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