百合ちゃん

メリー・ポピンズの百合ちゃんのレビュー・感想・評価

メリー・ポピンズ(1964年製作の映画)
4.8
以下ゼミのレポートで書いた内容を色々省略してまとめたものです。原作は1930年に刊行されたのに、1960年代にディズニーによって製作されたこの映画の舞台設定はわざわざ1910年のイギリスになってる。それはなぜなのかっていう考察です。


メリーポピンズはバンクス氏を「眼前の現実が見えない人」と形容している。1910年代に生きる彼は、映画の冒頭で、大英帝国の素晴らしさ、イギリスの銀行の勢いの良さ、そして彼が仕事にも家庭にも満足していることを歌っている。その行進曲の曲調が、彼のイギリスへの愛国心を表しているだろう。しかし実際には、1910年代とは 第1次世界大戦が起こる直前、大英帝国に衰えが見られる時代だ。バンクス氏が見えなかった大きな変化と目の前の闇とはなんなのだろうか。

1910年のイギリスでは、表面化するヨーロッパの緊張、アイルランドに自治権を与える法案を巡る国会内の対立、国家の富が労働者に分配されない体制、労働組合によるストライキの頻発、遅々として進まぬ貧困層の救済策、女性参政権運動、既得権を守ろうとする貴族院による様々な改革案への妨害など、支配層に権利・権力が集中していた現状を変えようとする力と、保守的な力の衝突が激しくなっており、様々な面で対立が起こり世の中に緊張が張り詰めていた。

また、バンクス氏が「経済界は安定している、英国ポンドは世界一!」と豪語するイギリスの経済力に関しても、ロンドンのシティは銀行や保険業が帝国の心臓部として世界経済を支配していたが、大量消費財の工業生産ではすでにアメリカに追い抜かれており、シビアな状況だったのである。

これらの変化が起こり始め緊張が高まっている時代に、バンクス氏はこれから起こりうる大英帝国の危機を直視しようとせず、イギリスの繁栄が永遠に続くことを疑わずに、今の生活で満足していることを強調しているのだ。しかし、そんなバンクス氏も世の中の変化は薄々感じ始めており、映画中の歌にその不安が表れている。

​“A British bank is run with precision
​A British home requires nothing less!
​Tradition, discipline, and rules must be the tools
​Without them – disorder!
​Catastrophe! Anarchy!
​In short, we have a ghastly mess!”
(R. M. Sharman and R. B. Sharman, 1964)

世の中に起こり始めた大きな変化、それによって起こりうる「無秩序!大変動!乱世!」に対する不安がここに表れている。だからこそ彼は「伝統と規律と規則」を重きに置くべきだと考え、家庭にもそれを押し付けている。これらの世の中の変化に対する不安は1910年代のイギリスのこととして描かれているが、この映画が製作された1960年代のアメリカも、この時代のイギリスと同じような境地に立たされていた。

1960年代には、1910年代のイギリスがそうだったように、アメリカが世界で一番の強国となっていた。しかし、この時代のアメリカでも、かつてのイギリスがそうだったように、様々な変化が起こり始め、世の中は緊張で張り詰めていく。

東西冷戦の時代、1962年のキューバ危機によって米ソの核戦争が現実のものになり得る事態にまで進み、1963年にはケネディ大統領暗、同年にはベティ・フリーダンの『新しい女性の創造』(The Feminine Mystique)が出版され、ますます熱を帯びていく第二波フェミニズム、南部から伝わる公民権運動、ベトナム戦争の泥沼化、反戦運動。

バンクス氏の「無秩序!大変動!乱世!」に対する不安を、1960年代のアメリカも感じていたのである。従って、ディズニーがわざわざ映画の設定を原作が刊行された1930年代ではなく1910年代のイギリスにしたのは、当時のアメリカと似た境遇にあったが、その後世界で一番の強国であり続けることに失敗してしまったイギリスの姿を通して、アメリカのイギリスとは違う独自の帝国としての理想像を描こうとしたからである。

そのような目的をはらんでいるこの映画全体には観客に向けた直接的なメッセージがある。それは、子供にもっと愛を注ごう、というものだ。

映画の冒頭では、女性参政運動に夢中で自分の子供たちを乳母任せにしている母親、仕事に夢中で子供に厳しすぎる父親、両親に相手にしてもらえない二人の子供という家族が描かれていたが、メアリー・ポピンズの存在によって家族の形が変化し、最終的な家族の姿は映画の最後のシーンに表れている。

バンクス氏は息子に投資をするように強要していたはずの2ペンスを使って紙と糸を購入し、子供たちのために壊れた凧を修理する。さらに彼は銀行の重役として抜擢され、将来は安泰だ。バンクス夫人は女性参政運動のタスキを自ら外しその凧の尻尾として付けてしまう。子供たちは親の愛を受けて無邪気に凧揚げを楽しんでおり、もう乳母は必要ないようだ。このように、社会的地位が安泰しており子供に優しい父親、女性参戦権運動をやめて優しく家族を支える母親、親の愛を受ける子供達という家族の最終形態が1960年代のアメリカの理想として描かれている。

世界で一番の強国となっても、アメリカとはそもそも自由と平等の国、愛し合う家族の豊かな生活が実現する国、乳母の力を借りない育児ができる現代的な国であり、バンクス家の家族の最終形態はアメリカ的価値が体現されたものだ。そしてその最終的な姿は、進化した姿ではなく、元々の「あるべき姿」、1950年代の家族の姿に回帰した姿だと考えられる。

アメリカの歴史学者ステファニー・クーンツ(1998)によると、1950年代以前の母親たちは家事をためらいなく召使いに託していたが、1950年代になると、母親が夫と子供の世話をすることが重視され、それができないと罪悪感を感じるようになっており、家庭の中の役割に重きが置かれるようになった。さらに、女性だけでなく男性も、自分のアイデンティティーを家庭内での役割に見い出すようになった。

この映画におけるバンクス家の最終形態はまさしくこの1950年代の家族の形であると言える。世の中の変化と高まる緊張感と不安を抱く1960年代のアメリカで制作されたこの映画は、少し前の「あるべき姿」に戻ることで全て解決するとということを伝えようとしていた、と捉えることができる。

従って、映画版『メアリー・ポピンズ』では、時代設定をわざわざ原作とは関係のない1910年にすることで、映画製作時のアメリカの立場に近い大英帝国を描き、世界で一番の帝国になり続けることに失敗したイギリスとは違うアメリカ独自の理想の姿を観客に伝えようとしたのである。その理想の姿は、1950年代に見られた家族像の中にあり、少し前の姿、考え方に戻ることで当時のアメリカが抱いていた不安を払拭しようとしたと考えられる。