【ヌーヴェル・ヴァーグの対極】
※ 「追悼ジャン=リュック・ゴダール映画祭」
巨匠画家の作品を映像世界でそっくりに真似て見せる。
なんか壮大な試みのように聞こえなくはないが、これはつまり、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の正反対の行為だ。
何のアドリブも意外性もない。やっぱり、対極だ。
この作品に込められたメッセージとは何だろうか。
いずれにしても、ゴダール自身が、ヌーヴェル・ヴァーグ以外のこともやれば出来るんだよみたいな下世話なメッセージを込めたとは思えない。
それは、このストーリーのなかの絵画を映像で真似て見せる企画が崩壊することからも明らかだ。
取り上げられる作品は、光と影の表現も秀逸とされる画家のものだ。
そして、レンブラントもベラスケスもゴヤもフェルメールも、光と影の表現をカラヴァッジョに学んだとされている。しかし、他のカラヴァッジョに学んだ多くの画家が「カラヴァジェスキ」と一括りにされてカテゴライズされる一方、彼らをカラヴァジェスキと呼ぶ人はいない。
それは、光と影の表現の他に、独自のものを積み重ねたからだ。
ゴダールは自らを、更にゴダールの映像手法をちやほやする人に飽き飽きしていたんじゃないだろうか。
ただ、本当はこんな風に言いたかったのかもしれない。
ヌーヴェル・ヴァーグも含めて映像表現を真似たりすることは決して悪いことではない。しかし、それだけでは、新しいものは生まれない。そこに独自の何かを付加しないと新しいものにならないのだと、そして、重要なのは、そこに向かおうとする「パッション(情熱)」ではないのかと。
レンブラントにも、ベラスケスにも、ゴヤにも、フェルメールにもそれはあった。
この作品の時代背景としても取り上げられるポーランドもそうだが、社会変革も紆余曲折があるし、民主主義社会でも戦争や暴力があることを考えると、より良い独自のものがある可能性だってあるのだと言いたかったのかもしれない。
そんなふうに思う。