晴れない空の降らない雨

恐怖分子の晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

恐怖分子(1986年製作の映画)
4.2
 観ていて少しだけ大友克洋のマンガのようだと思ったのは、作品の根底にある感情が「退屈」だからである。
 不良少女のイタズラ電話も、女流作家の急な心変わりも、ボンボン息子の余計なお節介も、すべては深い思慮のうえでなされたものではない。退屈に由来する捨て鉢な悪意や無意味な好奇心が衝動的な行動を引き起こし、玉突き事故のようにストーリーは悲劇へと転げ落ちていく。
 
 いくら退屈から逃れようと変化や事件を求めて行動を起こしても、失敗を運命づけられている。退屈の原因は外部ではなく内部にあるからだ。つまり、新しさの不在によって起こるのではなく、当人の内面にある根無し草の気分に由来するからだ。
 もちろん、そのメンタリティ自体が外部環境によって形成されることは言うまでもない。だから大友とヤンが自国の都市を見つめる視点もまた似通ってくる。そこには敵意がある。
 
 
■3つのメディア、あるいは曖昧な凶器
 
1.電話
 電話が悲劇の発端をなすのは示唆的である。電話帳を開けば見知らぬ相手に話しかけることができると同時に、いかに近しい人間とも顔を合わすことはない。電話を通じた間接的コミュニケーションにおいて、メッセージが最終的に誰に届き、いかなる意味をもつのかは不安定なのである。他方、家庭という親密圏は冷めきって、もはや直接的伝達による意味の安定化を担えない。
 電話のもつ攻撃性は物語上の位置づけとしてだけでなく、その無骨で人の手に余る大きさと重みや、人をその場に縛りつけるコード、そして不快で不穏な着信音やビープ音を通して、知覚的にも雄弁に伝えられている。
 
2.写真
 医師と小説家の夫婦宅の居間の壁には、後ろ姿の女性のヌードを写したカレンダーがかけてある。明らかに普通の夫婦の住処にそぐわないこの写真は2回画面に現れるが、夫婦ともに関心を払う様子がまったくないのは逆に病的にもみえる。
 兵役を控えた金持ちの息子の趣味はカメラである。彼の恋人が怒って、彼の撮っていた写真やネガを部屋にぶちまける。彼女と別れ、違法賭場だった部屋を借り、暗室に改造して暮らすカメラ少年。逃亡する不良少女を撮っていた彼は、恋人にもそうしていたように、その写真を60枚にも分けて拡大プリントして壁に飾った。ある日訪れた不良少女を泊めた彼は、唐突にくちびるを奪い「兵役が終わったら一緒に暮らそう」と誘いかける。彼女は少年の青臭さなど意にも介さず、朝方に去っていく。彼が窓を開けると、印画紙たちは風にはためき、少女の顔はバラバラに寸断される。
 このことは、写真から映画への移行を示している。少女の安定した単一のイメージが解体される光景を通じて、実際にはそれがモンタージュによる人為的な統一性だったことが暴露される。ちょうど、ボーイミーツガールな発展に対する観客と少年の予想(期待)が裏切られるように。
 最後に、この写真は復讐の手がかりとなることで、思いもよらぬメッセージを思いもよらぬ相手に届ける可能性も示される。したがって、電話のモチーフと同じく、ここでも意味の不安定さが暗示されていると考えられる。
 また、そのことに写真、そして大半の商業映画がもくろむ「イメージの固定化」への批評性を込めているのは明らかだ。カメラ少年の行動がその孤独と関連づけられているのも、対象がかならず女性であるのも、そのような固定化をしたがる欲望の在処を示唆する。
 
3.フィクション
 大友克洋のいらだちはやがて爆発し、まずは戦後日本の平凡な家庭の象徴たる団地を、ついで日本という平坦な風景そのものを、非現実的なパワーを使って虚構のなかで破壊するに至った。
 ヤンは禁欲的であり、虚構と現実の2通りの結末を用意しながら、どちらでもあり得たことを示唆するに留まった。さながら幾つもの人生をモンタージュしたかのような巧みな人物配置とストーリーテリングが、彼女の小説による自己言及によって真偽を確認できなくなっていることで、虚構と現実の明確な線引きは機能不全に陥っている。また、女流作家の小説は元恋人や夫に影響を与え、行動を引き出していくが、やはりメッセージがその通りに伝わるとは限らないのである。
 
 監督はさらに、『恐怖分子』という虚構から観客席という現実に向かって語りかけることでも、両者を越境している。女流作家が夫に対し鬱積した思いをぶちまけるとき、カメラは終始その顔を真正面から捉える。だからこのショットにおいては、夫は自分の感情を無視され、カメラ、つまり観客と同一化させられる。
 写真において客体化されていた女は、いきなり主体として立ち現れる。そして男と観る者が、今度は客体に貶められる。女は、観客に対して思いをぶつけているのだ。「私はこの部屋の中で 変化のない生活から逃げようとしていたのよ これが私たちの最大の違いなの」と。
 ただし、監督は単にフェミニストに共感しているわけではない。むしろ本作はペシミスティックであるがゆえに、すべての登場人物に対して等しく同情的であるといえる。