こーた

恐怖分子のこーたのレビュー・感想・評価

恐怖分子(1986年製作の映画)
-
分子をあつかう化学の世界に、「自己組織化」という、きみょうな現象がある。
小さな分子のかたまりに、ちょっとした刺激を与えると、それら分子が自然にそなえている凝集力がはたらいて、勝手に集まり、一個の巨大な分子を組み上げる、そんな魔法のような現象である。
ひとつひとつは大した機能を持たない、小さな分子でも、それぞれがパーツのように組み合わさることで、複雑な機能を全体に持たせることができる。

この映画は、小さな断片の積み重ねでできている。
それぞれのシーンで描かれるのは、ちょっとしたすれ違いや、違和感である。いっけん関係がなさそうにみえる、断片的な些事が、ささいなきっかけから繋がりをもち、各々が互いを自然に引きよせ合う。シーンが勝手にまとまり、無意味に思えていた個々の断片が、全体として意味を、機能を持ちはじめる。
細切れの紙片があわさることで、一枚の巨大な写真が立ちあがってくるように(なんとゆう印象的なカット!)、シーンの断片が組みあわさることで、大きなうねりが押しよせる。違和感が、恐怖の分子が、自己組織化を起こす。そのさきに、一個の巨大な物語が、浮かびあがってくる。
刺激の役割は、「物語」が担っている。イーフェン(彼女は小説家だ)が劇中で編む物語が、触媒のように作用して、映画そのものを飲みこんでいく。
その刺激は映画を観るわたしにも伝わり、わたしまでもが、その巨大な構造の一部に組みこまれていく。

ところで、化学の「自己組織化」を支える凝集力は、一般に弱い結びつきによって、その巨大構造を保っている。それは、刺激の与えかたを変えれば、分子の構造が(そして発揮する機能も)容易に変化する、ということでもある(化学〈ばけがく〉よろしく、まさに分子が化けるのだ)。
恐怖分子の自己組織化が生み出すこの物語も、ささいな刺激で、その様相をガラリと変える。
え?え?いままで観ていた物語は、どこへいってしまったの?
真実だと思っていたものが、一瞬にして崩れ去る。
変幻自在の展開に、それまで感じていた恐怖とはまったく別物の、もっとおおきな真の恐怖が、現実感をともなって、わたし自身にのしかかる。
わたしという分子の集まりが、ガラガラと音をたてて崩れていく。

でもそれは、新しいわたしを再び積み上げる、きっかけでもある。
映画を触媒にして、いままでとはまったく違う、新しい機能を、世界を獲得する、そんなポジティヴな恐怖だ。
恐怖の分子が、新しいわたしを、自己を組織化する。わたし自身が変化する。