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レナードの朝のkomoのレビュー・感想・評価

レナードの朝(1990年製作の映画)
4.5
令和元年おめでとうございます(^^)
新しい時代にも、沢山の映画やレビューに触れて行きたいです。
令和の一本目は、【目覚め】をテーマにしたこの作品で。


神経外科医のセイヤー(ロビン・ウィリアムズ)は、赴任先の病院でレナード(ロバート・デ・ニーロ)という患者に出会う。レナードは11歳の頃から中年に差し掛かるまで、ずっと昏睡状態で眠り続けていた。
セイヤーは前例のない治療法を用い、レナードを目覚めさせることに成功する。
30年ぶりに意識を取り戻したレナードは、変わりきった自分の姿や街の様子に困惑するも、生きる歓びを確かに手に入れていた。
そしてセイヤーの治療により、レナード以外の患者も次々と覚醒を果たしてゆく。
その一方で、レナードにとある心境の変化が起こり、それがきっかけで彼の病状は悪化してしまう。


人間はみな命を受け取り、やがてはそれが尽きるようにできているもの。しかし人間に対しそれを与えるのは、本来は神の役目。
眠ったままであり続けるはずだったレナードに対し、対等な立場の"人間"であるセイヤーが彼に新たな命を吹き込んだという点が、考えさせられるポイントでした。

初めはレナードの覚醒を喜んでいた彼の母親も、レナードが新たな自我を獲得し始めたあたりから、セイヤーを責めるようになってしまいます。
いっそ誰の干渉も受けず眠ったままであったなら感じずに済んだ哀しみが、レナードと年老いた母を襲います。

セイヤーは無口で対人関係が円滑ではありませんが、患者を想う気持ちと研究への熱意は人一倍。
しかしその"患者への愛"と"自分の研究"というのは、ベクトルは同じであってもその間に厚い壁が存在していました。
研究心を深めれば、どんな患者も目覚めさせることができる。
しかし患者にとって、目覚めることは本当に幸福か?
悪い言い方をすれば、"仕事"の一環として患者に新たな命を与えることは、医師の欺瞞であるとも捉えられてしまうのかも知れません。
2つの心の間で揺れるセイヤーと、彼に対する理解を深めてゆく看護師のエレノア(ジュリー・カブナー)のドラマが繊細です。

心は少年のままであり、多くの神経症状に悩まされてゆくレナードを演じたデ・ニーロの芝居は、巧いなんて言葉では足りないほどでした。顔面と四肢のすべてから伝わってくる、病の悲愴。
一度与えられた能力が再び奪われてしまう哀しみを描いた物語としては、『アルジャーノンに花束を』を読んだ時のような喪失感がありました。

そんな彼が病状の進行する前、深夜にセイヤーを叩き起こし、生きる歓びを語り始めるシーンがとても好きです。
レナードは昏睡状態に陥る前から利発な少年であったので、この時にはもうすでに自分の運命を悟っていたのかも知れません。
生きていることの価値を感じ、挑戦したいこと、側にいたい人もいる中で、あえてそれを遠ざけるように反発してしまう身体と生命。
この上なく不条理で、なおかつこのお話は実話であるのでよりやるせない気分になります。

それでも観終わった後に少し心が柔らかくなったのは、ロビンとデ・ニーロの真摯な演技に触れたおかげかも知れません。
『朝』という単語を用いた邦題もお気に入りです。
健康体の人であれば朝は何度も巡り来るけれど、レナードにとってのその『朝』は、決して他の出来事に代替することのできない人生にたった一度の節目であったのだから(作中で意識を取り戻したのは夜ですが)。

また、ラストシーンでセイヤーとエレノアが選んだ行為が、『歩く』ということだった点にも感銘を受けました。
きっと2人はその後、自由な身体で夜の中を歩みながら、人間にとって最も大切なこととは何かを心に感じるのだと思います。
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