カラン

クローズ・アップのカランのレビュー・感想・評価

クローズ・アップ(1990年製作の映画)
5.0
レオス・カラックスの『ホーリーモーターズ』のように、映画世界と観客の世界を繋げ、演技と生きることを接続させる映画なのかと思っていたが、違った。あるいは、ベルイマンの『ペルソナ』のように映画を製作する者の眼差しを映画内世界に導入して、独立した《一つ》の世界という神話を壊乱するアンチロマンの企図を持つわけでもない。

アッバス・キアロスタミの『クロースアップ』は、やっていることは入り組んでいるが、非常に素朴な仕上がりになっており、フェリーニの『8.5』をむしろ想起させる、映画監督の祈りのようなものを感じた。映画とは嘘ではないのか?人をたくさん担ぎ出して、よってたかって嘘をこしらえるのが、映画作りではないのか? フェリーニはこの本質的な虚偽性を感じていたがゆえにセット撮影にこだわったのだと、キェシロフスキは同情を示していたが、フェリーニがセット作りに勤しみ始めるのはまさにこの『8.5』以降のことである。

フェリーニは『8.5』で映画監督グイドに拳銃で頭を撃ち抜かせることで、ネオレアリズモから解放され、映画監督として生き延びた。アッバス・キアロスタミは、映画監督でないのに映画監督であるかのように振る舞う詐欺を働いた男の裁判を描き、この男を赦すか?と何度も問いかけてくる。何度もだ。「映画監督」を赦せるのか? これがこの映画の唯一のエモーションであろう。こんな問題意識を共有できるのだろうか、鑑賞し、作品を次々と消費していくだけの私たちに?

しかし、また、いったいどうして映画製作なるものはかくも罪深い所業になってしまうというのか? 頭を撃ち抜かねばならないほどに。詐欺であると告発されて、その赦しを請い願わなければならないほどに・・・。「私は映画製作者にとって基本的な事に関して限界に近づいている。つまり、忍耐の限度なのだ。」と、キェシロフスキーは引退宣言をだす前に自分の映画製作について告白していた。

偽の映画監督が本物役の映画監督を抱擁するシーンは、道路に額をこすりつける『罪と罰』のラスコーリニコフのようである。最後のクロースアップショットの永遠性は『大人は判ってくれない』のそれを超えたかもしれない。いや、それはないか。ただ、それくらい感動的なショットだ。






以下は、実在の映画監督マフマルバフであると詐称したこれまた実在の失業者サブジアンが収監され、その記事を読んで、制作途中の映画そっちのけで監獄にまで会いにきたこの映画の監督であるアッバス・キアロスタミとサブジアンによる劇中の対話である。全て本人役で出演している。したがってこの人たちは職業俳優ではない。



「はじめまして。」

「どうも。実は私は事件の記事を読んであなたに会いに来ました。」

「そうですか。新聞の記事ですか?」

「雑誌のです。映画に興味があるとか。私も大の映画好きで、似ていますよ。」

「あなたは?」

「キアロスタミです。」

「キアロスタミさん?本当ですか。驚きました。あなたのことは知っています。」

「力になりたいと思いまして。」

「私たちの《痛み》を描いてください。」

「まず話を聞かせてください。」

「私の罪名は?私の罪名は「詐欺」なんですか?」
カラン

カラン