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地獄の警備員のhorahukiのレビュー・感想・評価

地獄の警備員(1992年製作の映画)
4.1
三年前、富士丸という力士が兄弟子と愛人の体をひねり殺害。でも心神耗弱により刑事無責任で釈放。そして現在。美術品に詳しい主人公は新しく勤めることになった商社で慣れない中過ごすが、そこには富士丸という恐ろしくデカくて不気味な警備員がいて…という話。

大好きな黒沢清監督の初期の作品で、和製スラッシャー映画の傑作です。でも刃物使わないからスラッシャーではないのかな?(^_^;)
黒沢監督は難解な作品が多いですけど、これは全くそんなことはなくて「逃げることができないビルの中で殺人鬼が次々に人を殺して行く」というすごくわかりやすい内容。

それでも黒沢清らしさは抜群で、暗闇の使い方がトンデモなくうまい。全編通してほぼビルの中だけで物語が展開するんですけど、昼でも夜でも構わずずっと薄暗いんですよね。そして、どんよりとした空気がビルの中に常に漂っていて画面に全く温かみがないんです。ただのオフィスビルを幽霊屋敷のような異様な空間へと変貌させる撮り方や演出が素晴らしいです。

序盤で印象的なのは富士丸が通路を横切るシーン。本当にただ横切るだけなんですけど、その巨体と光と影の加減で、この世のものではないまさに幽霊のような、見てはいけないものを見てしまったんじゃないかと思うほどの不気味さ。そして、富士丸の高圧的で横暴ながらも冷静かつ冷徹な言動が怖い。

殺し方もエグいのが多くて、中でもロッカーに閉じ込めて体当たりでロッカーごと押しつぶすシーンが強烈でした。直接的なグロさはないけど、ロッカーが潰れるごとに叫び声が徐々に聞こえなくなっていくというのが中の悲惨さを想像させますね。

そして、ラストの言葉で富士丸の底知れぬ闇が見え隠れしてゾッとするような余韻がありました。富士丸を演じてるのは松重豊なんですけど、怖すぎて『孤独のグルメ』でご飯食ってる人とは思えなかったです(^_^;)


R4.6.22 追記ネタバレ



主人公にとっての警備員は、同一人の心的深層を反映したものと見ることができる。両者の車内シーンにより映画はスタートするが、フロントガラスの割れた車に乗る警備員は正面の視界(進む方向)に待ち受ける崩壊に向かって進んでいることが暗示される。一方の主人公は、渋滞により進むこともままならず、タクシー運転手との会話からもわかる通り自己の主張がほとんど通らない。そんなフラストレーションを抱えつつ会社に到着した後も「そんな部署はない」と言われ、スムーズには目的地に案内されない。そう言った積み重ねによって思い通りにならない彼女の現状を暗示している。

そして、このタイミングで主人公はフロントガラスの割れた車(警備員)と交差するが、ここでは正面から警備員と相対するわけではなく、後半、同じイヤリングを双方が身につけた状態で正対する(=警備員(自身の深層)と向き合う)ための導入として主人公の傍に存在することが示されるに留まっている。このイヤリングも同一人の心的別領域の具現化であることを示す大きな手がかり。また、フロントガラスという2人を隔てる境界が割れていることによって、その境界が非常に脆弱になっていることをも表現している。

両者の車内映像から始まったプロローグの終点で、その両者がほぼ同時に到着することになる商社は、主人公と警備員にそれぞれ象徴される同一人の心的領域の交差点と見ることができる。最近できたばかりの12課に主人公は絵画の専門家として雇われることになるが、本人が口にするようにビジネス面では全くの素人。彼女は売れる・売れないの価値ではなく純粋な芸術作品としての価値を重んじていることがわかり、12課は彼女の所属部署でありながら芸術的価値と貨幣的交換価値(カネの生々しさ)の葛藤に思い悩む場でもある。そして12課の人々は警備員に次々に殺されていく。まるで彼女の「芸術的価値こそ至高」とする本心があるが故の葛藤を体現するかのごとく。12課以外で殺害される人物もカネの生々しさを口にする者たちばかりであり、そういった価値観を否定したいという彼女の潜在意識(そして社会的幼さ・原石的感情)の表れとして警備員は行動しているように思える。そしてそのことは、思い通りに前に進むことのできない歯痒さや、芸術を扱う12課の社内における存在感の低さも含めて、監督自身の映画界における葛藤を主人公と警備員に体現させているようにも思えてくる。

プロローグ部分では前述したように割れたフロントガラスとして両者の境界の脆弱さ、中盤では警備員室の小窓(開かれる)とイヤリングによって2人の間の心的検問所が段階を踏んで完全に開通したことをそれぞれ暗示し、心的深層(警備員)を自我(主人公)によって抑圧するための寓話的対決へと物語は進んでいく。セザンヌ『ひびわれた家』に価値を見出す彼女と兵藤の顛末、そして絵画自身による象徴性も面白く、割れたのではなくひび割れという状況が警備員の「俺のことを忘れるな」というセリフにも繋がっていく。完全に割れる(=切り捨てる)のではなく、自分が生きている以上、永遠に警備員は真隣(自分の心の中)に居続けるのだということ。そしてそれは彼女が葛藤している芸術の価値における命題においても同様であり、著名な画家たちがそうだったように芸術の世界でもその両者は切っても切り離せないことをも意味する。『ひびわれた家』の市場的な価値が微増することにも彼女の心的な葛藤のシーソーがどちらに傾き始めたのかが垣間見える。また、ゴヤ『我が子を食らうサトゥルヌス』を親子ではなく警備員と主人公に置き換えたとすれば、作中の関係と現実の関係が真逆となってしまう現実社会に向けた厭世的な監督の嘆き(あるいは『裸のマハ』的な強烈な決意)をも受け取ることができる。

相撲取りであることの理由は良く分からないが、当時は若貴時代でもあるし、中川信夫『雷電』、筒井康隆『走る取的』にも見られるような相撲取りに対する超人性信仰とも呼べる感覚への懐古主義的一面の表れのようにも感じた。ただ、ロッカーアイアンメイデンについては力士であるならばテッポウのようにやって欲しかったとは思う。90年代の映画でありながら、本作のビルを取り巻く風景は、かつてのセット撮影のような抒情感を醸し出しており、ビル内(特に地下室)の空間装飾等々のゴシックホラー的雰囲気、『回転』のような空間を跨いだ向こう側に存在する心霊表現にも懐古的雰囲気が満ちている。『大人帝国の逆襲』的というか、失われていく過去の感覚へのフェチズムに溢れた、(製作年は逆だけど)黒沢監督版『麗猫伝説』の側面もあるように感じた。この懐古主義的発想こそが主人公の奥底に眠る芸術に対する熱意であり、貨幣的交換価値を他方としたシーソーの一端を担っているのだろうと思う。この価値観を体現した主人公が思い通りに進ませてもらえず、貨幣的価値観の巣窟へと放り込まれることで芸術にとっての現実に直面し、その葛藤の元で深層心理によるカネを標的とした殺人がおこなわれていく。
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