ぞら

五条霊戦記//GOJOEのぞらのネタバレレビュー・内容・結末

五条霊戦記//GOJOE(2000年製作の映画)
1.0

このレビューはネタバレを含みます

⚠️自分用









平氏を殺す鬼が出回り、そんな折に夢枕で不動明王に鬼を倒せと言われた弁慶
過去の罪を清算したい弁慶は阿闍梨の言うことも聞かず、光明を得る為鬼退治へ

という冒頭が面白さのピーク
上映時間と内容が釣り合っていない
100分でテンポよくいけるよ
20年前ならそこまで昔の映画ってわけでなし、引き伸ばしてる意味がわからん

風魔小太郎原作を読んだわけではないが、この映画に関してはストーリーに難あり

弁慶はかつて相当の悪さをし、自らに向いた復讐の血筋でやっと自分がしてきたことの罪を知る
自害しようとした際に助けてくれた阿闍梨と出会い会心し、仏の道に精進
夢枕に不動明王のお告げがきたことが嬉しくて、剣を盗んで阿闍梨のいうこと聞かずに鬼退治へ( 阿闍梨にほめてもらえるかも、もう七年も仏に身を捧げてるんだから光明欲しいし、鬼退治の為なんだから名刀ぐらい借りてもOKっしょ→→冒頭ですでに煩悩が吹き出しまくり)
⭐️落ちぶれた刀鍛冶に会って相棒みたいな立ち位置にいるくせに、コイツなんの役にもたってないwww
コイツが弁慶義経の戦いを語り継ぐことになるんだろうことはわかるが、ラスト目が見えなくなってるのは謎だし…
琵琶法師にでもなるのか?


鬼がやってくるが実は鬼じゃなく、剣の立つ3人衆
弁慶は斬り合うことなく見つめ合うだけで終了
⭐️ここで立ち会わせて互いに只者でないことを自覚させたらいいのに
鬼切る切るマンになってる癖に、あれ人じゃね?って冷静なとこが後々キャラの成長の邪魔になってる
ここではあくまで御仏に仕える身でありながら、目先の光明にとらわれてる設定で十分だと思うのだが…
弁慶「…鬼ではないな、何者?」
遮那王「お主こそ何故我らを斬ろうとする?」
くらいのセリフ入れろや(これで上映時間短縮)
あと太刀シーンのスピード感はあれどカメラワーク見辛過ぎる上に長い
酔いやすい人注意ぐらい画面グラつくし、何が起こってるのか俯瞰の絵なさ過ぎて分かりづらい



なんかしらんけど役立たずの元刀鍛冶に道案内してもらい、遮那王のアジトへ近づいてゆく
森の悪霊払ったりはもうツッコミが追い付かんので割愛するとして、弁慶と遮那王がまさかのテレパシーで会話し始める
ここで遮那王の生い立ちが判明するや否や、弁慶が平氏達に捕まる
⭐️遮那王と弁慶が鬼の子として生まれた同じ境遇であることを互いに知るという大切な場面なので、そこをもっと強調させれば今後の「我に挑め」が生きてくると思うのに…
私達は同じか…!
と鬼として見れなくなった弁慶に対し、鬼と恐れられた弁慶を殺せば自分は鬼神として完成すると強く思う遮那王
戦いたくない者と戦いたい者の対比をここで確立させられる
だからこそ、平氏に捕まった弁慶の「俺は人間だ」にもう一言「奴も人間だ、人間とは戦わぬ」があれば説得力が増すのでは?
⭐️この後、弁慶を森に縛り付けてたのはよく分からず
突き止めたであろう遮那王のアジトへ道案内させられている際中に襲われる設定で十分、野党みたいなのはいらん
遮那王達に斬り殺される兵団を見て、國村隼が「そなたが戦わぬせいで大勢の人間が死んでも良いのか?」という問いかけがあって、どれが頭の中で反芻すれば“迷い”というものが明確化しただろう
⭐️なんとか剣をとるが、迷いがあるために昨夜のようなキレのある太刀が出ない弁慶
今のままの弁慶を倒しても意味がないと思った遮那王は煽るが本調子がでない弁慶に苛立ちを覚える
弁慶がもうやられてしまいそうになった刹那、阿闍梨がやってきて助かる


阿闍梨のおかげで休戦状態になったが、修行しなおせと言われた弁慶は刀を捨て旅に出る
村の民は平氏によってなんか燃やし殺される(平氏の悪い噂が流されるのを危惧してと勝手に解釈しておこう)
一方その頃、旅に出た弁慶は道半ばで疲れ果てた僧侶と出会い、死ぬ手伝いを頼まれる
僧侶として未熟だと自信をなくしていた弁慶はこれを断るも、何故か相手が勝手に燃えたためお経を唱えてあげる
この後、変わり果てた村へと帰ってきて赤子を何故か生き返らす
同じ頃、遮那王は阿闍梨を含む御仏に仕える者達を次々と殺害することで神の力を得ている、神として完成に近づいていると思う(めっさ勘違いww)
そしてこれで戦うのは最後だと、弁慶は刀鍛冶に刀(と鎧もあった、器用ね刀鍛冶さん)を作らせ、遮那王を倒しに出掛ける
⭐️ここに登場する僧侶を救えずして徳信を得たと言えるのか?
死を手伝ってくれと懇願する僧侶に対し、自分も自身に絶望し同じことをしようといたこと、阿闍梨に救われながらも自分は仏の道を何一つわかっていなかったこと、そして僧侶を手伝える資格はないと経緯を洗いざらい話す
「では武器も持たず俗世を捨てた我らは、人々の為に何もできないのでしょうか?祈ることすら無意味なのでしょうか?」と泣き崩れる僧侶
弁慶は阿闍梨の言葉を思い出す
「私は草木も動物も人も愛しているだけ」(映画だと草木だけだったので、寂しさを感じた)
そこで自分にできることはまだあるはずだと、遮那王のもとへ行こうとする
「戦われるのですか、あなたは強いお人ですね」という僧侶に弁慶は「人とは戦いませぬ」と言い放つ
それでは殺されに行くおつもりかという問いに、黙って立ち去る弁慶
どうなるのか気になった僧侶は後について行く
刀も何も持たずに五条橋へ
⭐️村の焼き討ちは正直いらない
村のシーンをカットして、弁慶の心情変化のキーマン的役割を刀鍛冶と僧侶を1つにまとめれば時間短縮できるはず



壮絶な死闘が始まるが、早早に打ち直して貰った刀が折れる
遮那王に明確なダメージを与えることなく腹を貫かれた弁慶は、折れた刀を高らかと空へ突き上げる
すると雷が落ち2人は相討ちに
最終的に遮那王の側近2人が義経と弁慶となる
⭐️有名な題材を実はなり代わりだったとするオチは面白いと思った
⭐️何も持たず、避けてばかりの弁慶に苛立ちを覚える遮那王(ここのアクションは手練れの遮那王相手に弁慶が1歩もひかない)
「戦わずして何が守れるのか、祈っても神は何もしてくれない」という遮那王に、「仏が我々を助けてくれるのではない、自身の心に御仏を想うことで救われるのだ」と弁慶
「人の御仏のような心の部分を信じ祈ることこそ、仏の道だったのだ!」

遮那王はついて来ていた僧侶を狙う
庇った弁慶は胸を貫かれる
嘲笑う遮那王は刀を抜こうとしたが抜けない
弁慶は胸の刀を合唱の形で挟み、抑えていた
「…私に出来ることは…、憎しみの鬼に囚われたお主の心が救われるよう、祈ることだけだ…」と弁慶は合掌のまま絶命
言葉を無くす遮那王
すると空から雷鳴が…!
刹那、遮那王は僧侶を助けるため僧侶を端から突き落とし、自分は弁慶もろとも雷に打たれて橋ごと燃えてしまう

見守っていた側近は遮那王の意志を継ぐものに
僧侶は義経弁慶の戦いを語る者となる
            END
ぞら

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