カラン

ティファニーで朝食をのカランのレビュー・感想・評価

ティファニーで朝食を(1961年製作の映画)
4.5
壮絶。。。

冷静に考えると、恐ろしい終局なのではないだろうか、ラストシーンは。









☆破滅、、、?

夏目漱石の『それから』のラストで、代助は狂気の寸前であり、世界が真っ赤な火の車で、ぐるぐる回り出し始める。この世は本当は回ってるけれど、回っているように見えないのが通常。私たちは太陽が少し傾いたのだと事後的に分かるけれど、太陽が動いているのが見えているわけじゃない。ただ、代助には世界の運動が可視的になったんだから、漱石の描出は破滅のイメージとなる。

この映画では、ホリー(おそらく源氏名)が代助のポジションに向かう。ティファニーのあるニューヨークを出て行って、ブラジルだか南米に向かうと言い張る女は、拾い猫で名の無い、だから、誰のものでもない架空の自由を生きる猫くんを、車から通りに放り出す。「あんたがタフなんだったら、ネズミだらけのここでも、やっていけるでしょう!」自由の猫を捨てて、ティファニーが刻印した指輪を男から受け取ることも拒否してしまう彼女は、前みたいに羽振りがいいわけではない。お金はもうない。逮捕される直前はカットソーで飯を食いに外出しようとしていただろう。「フレッド」も死んでしまった。監督の演出ははっきりしてる。何ももたないホリーを「おしまい」の先に飛び込ませようとしている。

普通は、死んでしまう、よね。靴を脱いで橋の上に立つと言っている人みたいに、完全な喪失に直面しているんだからね。


☆降り注ぐムーンリバー

ただ、この映画の世界が、代助の世界のように回り始めないのは、歌なんじゃないかな、きっと。歌が世界を回転させない。何度も言うけど本当は回転しているけど回転しているように感じない。地球は今も回転しているけれど、私たちの地面は回転しているように感じない、でしょう。今、ホリーは回転を感じ始める瀬戸際なんだろうけど、「ムーンリバー」が救うんだろうね。あの歌が。大雨になって。溢れる涙になって。いっぱいに流れたら側道にきっとムーンリバーができるんだろう。映画のすべてがムーンリバーになる。これは圧倒的な大洪水のビジュアルイメージだろうし、終わりを意味する洪水なのではないか。


☆反対の世界へ

それであの猫くんが、想像上の自由を体現していた猫くんが、2人の胸の間で潰されていく。凄い圧力のシーンだ。もちろんオードリー・ヘップバーンのお上品なコケティッシュさとヘンリー・マンシーニの楽曲がこの破茶滅茶な映画をぎりぎり成立させているのだろうけれど、監督は歌と涙と雨の津波で、世界の破滅を描いたのではないだろうか。

このラストシーンは恋人たちがキスしているので、ドラマチックなハッピーエンドであるように見えるが、たぶん鑑賞者の誰もスッキリしたものは感じないだろう。私はまったくスッキリせず、ずっしりと重たく、陰鬱な気持ちになった。この映画のラストは複雑ではない、難しくもない。しかし、見たままのものの反対であり、ショットには無駄なものなど1つも映っていない。ショットのすべてが渾然一体となって、見たままの反対の世界に向かっているのではないだろうか。


☆歌のもたらす同一化

人は色々なものに同一化して、崩壊する世界を生き延びることができたりする。スピルバーグの『太陽の帝国』(1987)は、彼のファンタジーがデヴィッド・リーン的な世界の中で爆発した傑作だが、親から切り離されたイギリス人の少年が中国の広大な領域を彷徨いながら、ひたすら歌う。日本帝国軍が日本の軍歌を歌う時にも、歌う、聖歌を。『戦場のメリークリスマス』(1983)のデヴィッド・ボウイの弟は囲まれるが、歌が足りない。なぜならあの子は消滅してデヴィッド・ボウイに沈殿する有罪性の観念となる運命だからだ。『セレブレーション』(1998)で、兄が父親の有罪性を告発し、姉が黒人の彼氏をパーティーに呼んで、父親の威厳をさらに損なおうとする時、末の弟は歌いまくる、人種差別のチャントを。

映画で歌は危機とともにある。この映画のラストシーンも歌を呼び込む。大雨と溢るる涙の危機で。この世の全てを洗う大水が流れ出したならば、ムーンリバーになるのだ。ショットが歌うのだ、ムーンリバーを。





Blu-rayで視聴した。テクニカラーによるカラーフィルムである。たしかに幻想的ではあるのだが、どこか粉っぽい質感の発色などはどこ吹く風。本作のBlu-rayの画質は艶かしいといっても言い過ぎではないだろう。サウンドは5.1chマルチチャンネルサラウンドが用意されており、モノラル特有の狭さを感じさせない、自然な音場である。
カラン

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