YasujiOshiba

アメリカの影のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

アメリカの影(1959年製作の映画)
-
なるほどね。「カサベテス=レイン・ドラマ・ワークショプ」というのは、リー・ストラスバーグのアクターズスタジオの「メソッド」とよばれる演技法へのカウンターのひとつだったんだね。

メソッドが役作りのために俳優が自分の精神を掘り下げるような努力を強いるのに対して(ヨーロッパの例えばマストロヤンニなんかは、真面目すぎるメソッドに対して「演技はただの遊びにすぎない」と顔をしかめてみせていたっけ)、カサバテスは一種の即興で演技を構成してゆくとするわけなんだね。だから音楽がジャズなんだ。それもチャールズ・ミンガスのベースなんだな。

でも、即興を誤解してはならない。即興によって音楽が立ち上がるまでには、セッションを重ねて方向を探ってゆく必要がある。それぞれのミュージシャンが、その場に立ち上がる他の音を聞きながら、自分の音を絡めてゆき、それでいて全体にまとまめ、グルーブを立ち上げるような即興は、もしかするとスコア通りに感情移入しながら弾く演奏と同じくらい、場合によってはそれよりもずっと難しかもしれない。

最近の日本映画では、たぶん是枝裕和さんなんかも、セットで即興的なセッションを重ねながらシーンを作ってゆくという、カサベテスのような、反アクターズスタジオ的な演出をしているみたい。

アクターズスタジオといえば、そりゃ有名な俳優が多いけど、個性が強すぎてね。ハリウッド的スターシステムとしてはよいのかもしれないけれど、なんといえばよいのだろう、軽やかで自然な驚きがない。演技はどこまでも演技であって、たしかに歌舞いているから拍手は起こるのだけど、どこまでもフィクション。

ところがカサヴェテスは、ローマでフェリーニが『甘い生活』を撮っているころ、ニューヨークでこの『アメリカの影』を立ち上げていたわけだ。ワークショップに参加した彼らはどこまでも俳優にとどまりながら、その意味で「影」(Shadows)であることに徹しながら、その現場でなければ生まれないものを立ち上げようとしたいたわけだ。

生まれてきたものは、ある種のジャズだ。イタリア系の18歳の少女(レリア・ゴルドーニ)が、なにごともなかったかのように平然とアフリカ系アメリカ人の歌手(ヒュー・ハード)の妹をやっているシュールさは、むしろ俳優たちが「影」であることを確認するだけではなく、そもそも人は「影」を通してしか人を見ないというあたりまえのリアリティを突きつけてくる。何もかもが混ざり合いながら、そこに新しいものが生まれてくる感覚は、まさにジャズ。その場所で出会ったものが、相互に影響を与えながら、変容して新しいなにかを生み出してゆく。

なるほど、ぼくのテーマにおもいっきり引き寄せて考えてみれば、ここにも模範的なコンタクト・ゾーンを見出せたということになる。

これは名作。いや、もはや古典だな。
YasujiOshiba

YasujiOshiba