せーじ

火垂るの墓のせーじのレビュー・感想・評価

火垂るの墓(1988年製作の映画)
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この作品、観るのが辛すぎて最後まできちんと観れていないので、書こうかどうか迷ったのだけれども、この機会に向き合うという意味でも書いてみることにする。(最後まで観ていないのでスコアは無しで)

2018年4月13日、金曜ロードショウで途中まで鑑賞。

今回観ていて、大筋の物語は知っているのに途中で観れなくなってしまうのは、作品の描写そのものがありのままの現実をありのままに描いているからだというだけではなく、過酷な現実を突きつけているのに、主人公たちはもちろん彼らと関わる人々が誰一人として嘆き悲しまないからだということに気がつくことが出来た。彼らは別に心から信奉して戦争に協力していたわけではなく、ただただ素直に受け入れていただけだったのではないだろうか。
「花筐」評でも書いたことだけれども、この「誰も悲しまない(悲しめない)空気」そのものがもっとも危険で、心底胸糞が悪くなるから観たくなくなるのだろうと思う。つまり、現代の我々が当たり前のように共有している意識や常識とはまったく違う価値観に基づいた意識や常識が、あの物語の中には敷かれているのだと思う。
故に、西宮の叔母が意地悪に見えるのも、「意地悪に見える」という価値観が現代の我々に備わっているからそう見えるだけなのかもしれないし、幼い妹と生き抜くことが出来なかった主人公に落ち度があったのかどうかというのも、後の時代を生きる我々が我々の尺度で、あーだこーだ言っても仕方がないことなのだと思う。

逆説的な考え方になってしまうけれども、こういう作品を観て泣く事や悲しむこと、胸糞が悪くなることそのものが、豊かで平和な世のなかで生きているということの証でもある…ということなのかもしれない。

高畑監督が「君が戦争を欲しないならば」という著書で述べられているように、「おかしいこと」をおかしいと理性的に思うこと、なぜおかしいのかをきちんと自分の頭で考え抜くこと、そして堂々とそれを主張することこそが、シンプルだけれど劇中のような状況に二度と陥らない為の唯一の方法なのだと自分も思う。

ただそれって、今のこの国で自分も含めて皆が出来ているかというと…

そして、思い込みというタガを外して柔軟に物事を考えていくことが一人の人間だけでどこまで出来るのかは、正直自分でも自信がないんですけれども…それでも、やっていくしかないのだろうな、と思いました。
(「君が戦争を欲しないならば」は、本作品の副読本としてお勧めです。入手は少し困難みたいですが、図書館などで探してみるというのもいいかもしれません)
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