ケンヤム

アンブレイカブルのケンヤムのレビュー・感想・評価

アンブレイカブル(2000年製作の映画)
4.8
反転と予感の映画。
この映画では反転したカットが、物語を進める燃料として機能している。
反転した画像は、鑑賞者に言いようもない不安感を煽るが、そこで私たちが感じる不安感は人間の持つ予感としか表しようもない感覚だ。
今生きているこの地盤が根底から揺らぐ事象が、反転したカットの後に起こってしまうのではないかという不安感。
理屈では表しようのない「予感」という言葉でしか表現できないあの感覚。

予感の積み重ねこそ映画だと思う。
「何かが来る」と思うこと、その予感が外れるということ、その通りそれが来るということ、その連続、映像の連なり、繋がり、独立した映像を繋ぎ合わせる予感という接着剤。

予感は物語なのだ。
英雄としての自覚も予感から始まる。
私という人間は唯一無二で、特別なのではないかという予感から始まる。
それは、誰しも実は持ち合わせているもので、私だってこの文章を書いている今、これから書いていくうちにもしかしたら、この世の全てをひっくり返してチャラにしてしまうような天才的な言葉が思い浮かんでしまうのではないかと期待している。
そんな瞬間は訪れないだろうと思うけど。
とかいう、冷めた視点そのものにこの映画は怒っているのだ!
人の奥底に眠る力を信じようとしない凡庸な時代。
英雄は不在だ。
それなのに、私たちはミスターガラスのように英雄を求めずにはいられない。
ミスターガラスのように能動的でないにしても、受動的に無意識的に私たちは英雄を求めている。
映画がこれからも無くならないだろうという予感は、そこから来る。
私たちはこれからも英雄をスクリーンの中に探すだろう。

私もこの映画の息子のように、お父さんもしかしたらヒーローかもしれない。あんなにカッコ良いのだから。と小さな頃よく思った。
年齢を重ねるにつれて、それが幻想だったことに気づいて、ちょっとした絶望を感じたことをよく覚えている。
サンタクロースなんていないと気づいた時の感覚に似ている。
でも、今分かるのは父は凡庸なるヒーローだということだ。
哀しみの中年ブルースウィルスのような凡庸なるヒーロー。
「家族を養ってくれた父親に感謝」的な薄ら寒い自己啓発本かぶれの大学生みたいなことを言いたいのではないよ。
根源的に無意識的に俺の父親はヒーローなんだということを言いたいのだよ。
わからねぇだろうな。
まぁいいや。

イメージが立ち上がってくる。
子どもを殴る母親。家に侵入する男。女をレイプするおっさん。飛行機の爆発。電車の脱線。
鮮烈な死のイメージを抱えたヒーローが、その予感を予感として終わらせるために行動する。
ヒーローの行動原理。
世の中を反転させてしまう逆境の予感。
父と息子の間に広がる距離が詰められる時彼らの間には予感の共有がある。
「俺はやっぱりヒーローだったんだ」
「父はやっぱりヒーローだったんだ」
予感の共有はそのまま映画だと思う。
真っ暗な劇場で私たちはたくさんの人と予感を共有する。
ピンチだ!来るぞ来るぞヒーローが。
うわっ絶対そっからお化け出てくるじゃん煽るなよこわっ、うわーやっぱ出てきた。
黒澤明は「映画は世界の広場だ」と言ったが、その通りだと思う。
ミスターガラスのように、自分の欠落を埋めるために英雄を探そうと思うことは、逃避でもなんでもない。
自分の信じた英雄を探そうと思うことは、その行為そのものが孕んだ加害性を自覚した者にとっては、闘いだ。
ミスターガラスの闘いを最後まで見届けたいと思った。
ケンヤム

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