エクストリームマン

アンブレイカブルのエクストリームマンのレビュー・感想・評価

アンブレイカブル(2000年製作の映画)
4.0
They called me Mr. Glass.

ヒーローモノをシャマランが撮れば…案の定、という。彼独自のヒネクレと度を越した直截さが生み出した怪作にして、ヒーロー映画史の中でも傑出した一作。

ヒーローを必要とするのは、何も無垢で純粋で善良な“市民”ばかりではないし、またヒーローの資質を得る者が適切な時期に適切な形でその才能を発揮するわけでもないという、ある種「当たり前」のこと(ヒーローを他の才能に置き換えてみれば、現実世界でもよくある話)を「お約束」の塊であるヒーロー映画に持ち込むことを、シャマランが躊躇する筈もなく。1990『バットマン』(と続く『バットマン:リターンズ』)でティム・バートンが徹底的にヒーローの外形、言わば“ガワ”部分を映画に適した形で描ききったのに対し、シャマランはヒーロー(とヴィラン)の精神性を現実世界に受肉させることを目指している。

本作の白眉は、主人公:デヴィット・ダン(ブルース・ウィリス)と息子のジョセフ(スペンサー・トリート・クラーク)が家のキッチンで交わす会話の場面だろう。自分の父親は決して傷つかない不滅の肉体を持ったヒーローに違いない/そうであって欲しいという少年の強すぎる想いが、拳銃で父を撃とうとするという行動を誘発する。この場面で描かれる「希望の仮託」は、正しくイライジャ・プライス(サミュエル・L・ジャクソン)の動機と心理、そして行動にジョセフが漸近した瞬間であり、自身の存在や意味そのものを他者へと仮託することの危うさが究極の形で発露する瞬間である。結局ジョセフは踏みとどまり、イライジャ・プライスは躊躇うことなどなかったという違いはあれど、この反復が意味する本質的なフラットさがシャマランのパースペクティブであり、他のヒーロー映画やコミックスに内在する無謬性を破壊する根源に違いない。

とはいえ、圧倒的に、確かに超常的な力を持つ者が存在していることを前提としている点で、本作は間違いなくヒーロー映画と呼べる。(ヒーロー誕生前夜であるから当たり前ではあるものの)誰も超常的な力を持った人間の存在を信じていない世界の中で尚超常的な力の存在を信じる者は純粋か、あるいは狂っているかのどちらであり、シャマランがその両者を並置することを厭わないという点でユニークなのだ。