ニューランド

逃亡者のニューランドのレビュー・感想・評価

逃亡者(1947年製作の映画)
4.4
✔『逃亡者』(4.4p)及び『タバコ·ロード』(3.5p)『モホークの太鼓』(3.3p)『肉弾鬼中隊』(3.9p)▶️▶️
 フォードにも、他人には窺えないような奇妙な世界に入り込み、不可思議も深い余韻を与えてくれる作らがある。
 架空の国と言いながら明らかにメキシコの風土、革命後政府が信仰·神父を敵視し、捕らえ取り締まってる国の、民衆の本音の願いと、国外脱出の大方の神父らと、自ら処刑·殉教を受け止め果たすその一部のあり方。主人公の神父は不安定でその国で逃げ廻り、念中の何かに従う面も残し、恐れ迷い自分を決められず、居続けている、中での話。以前冒頭辺が欠けてるが『逃亡者』を35ミリのフィルムで観た時のような、極限でかつ飾り気のない真の神々しい美しさを感じるには、このデジタル版はやや透明度·コントラストを欠き、グレーの曖昧めのルックの支配の度合いが強い気がする。しかしショット間の緊張·軋轢·馴れ合いが少なく、白い埃り·塵の立ち込めに、自然な層の膨らみと神聖さがあり、シルエットめの主人公や象徴的な宗教的イコンがくり抜かれが、無理なく多層的な光と霞みの具合も、求心的に伸びてく力の中で果たされ、人々や装置の列の生まれが純化されて自然に導かれんとす、ベースは残ってる気もする。(90°変や縦図も絡む)切返しと90°変めのトゥショットという単純なスタイルが割合的に多く、映画的な弾みに関心がないようにさえ思え、ダドリー·ニコルズの定番の、周りをカットして閉鎖的状況を観念的·現実的に作っての煩悶や葛藤を詰め込み·沸騰させてく脚本グループの一本に過ぎないと云えば云えるにしても、何かひとつ次元の違う素直さの偉大さがある気がし、それは前回観た時は未だ観てなかった『沈黙~サイレンス~』にまんま呼応したような事でもある。売ったり告解を金で求めるキチジロー的キャラ、そして取り締まる側や犯罪者も自分のあり方を本音ではまるで肯定してない事らに相似点もある。その他のタッチでいうと、ローの床面·路面の自然な威容、仰角の人の顔·姿への畏敬、アップの押さえ方の急がないも例のない着実さ、どんでんや俯瞰めL·縦の構図の風格や美の威容も無理なく挟まり、カメラワークはフォローや動きの明快さを補助するに留まり、適格で痛撃はより強い破壊や銃撃のアクションや、輝くような自然や建造物の捉えもつましさを大きくはみ出はしない事、らの緩急の少なさ·定速、そのくせヒーロー的側面を押えた映画では素通りするところが何故かしっかり、物語が停滞する位に押さえられてる(処刑瞬間も窓際で音に反応の副主人公だけ)。
 最初に観た時は、主人公の卑屈さがとにかく印象に残って、その精神性の歪な突っ込みに驚いたものだが、見直すと、卑屈さというより、ワインが色々他人に飲まれるを止められないといった、人間としての半端さ·弱さが、まだ残る無意識の聖職や信者に対する敬虔さと抵触し、どうしようもない個人を超えた所に転がってゆく、転がり拡がり続けてく、人間と世界の無力さが、密度あるストーリーなど消え去って動いてゆく、駄作と取られても仕方ないような微妙で腰のすわった作品と感じ取れてゆく。その彼に偶然係る先住民の3人、夫は逃げていて、幼い子供の洗礼を求めて以来、神父に身を粉にして、その個人と宗教性の好転に尽くす酒場の女、その夫は都市部で出世してここに総督や署長に次ぐ、実質采配をふるう、警察中枢として戻ってくるが、宗教の無力·偽善に奮い立つ反面、捨てた妻や宗教に深い負い目ももってる。隠れ神父の賞金目当ての報告を生業としてる男は、告解·贖罪を同時に強くなりふり構わず、その場を求めてもいる。
 国外脱出しての病院でや、騙されてその国にまた戻り捕まり·処刑前日の主人公の会話とその落ち着いた話ぶりの、感慨·感銘ははかり知れない。「神父として、最後の1人として、国外脱出を留まり、5年もよく頑張った? 高慢だった。それに尽きる。そして堕落が始まっていた。殉教者を気どろうとしていた。その力·聖職者の資格はないのに。恐れ逃げ回っていた」「私に逃げろと? それより、人生の最期に告解すべきがあるを果たせ(、その後の正式なミサも私が果たす事)」「処刑を、私が恐れてる事? 私は聖人ではない。しかし、今その恐れが消えた。信仰に代わり、実在する制度や物に入れ替えたという執行の側の君の方が、恐れてるは、信仰が残ってる証左」
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 『タバコ~』は永く日本未公開であったから、期待して観に行った記憶がある。ルノワールもロッセリーニもヴィスコンティもヒッチコックも、各(準)ベスト作が何十年もそうだった先例があったせいもあるが、いざ観てみると、美と不思議な拘りは感じれたが、理解には至らなかった。
 それからまた長い時間を経て再見すると、脚本=撮影=監督=製作のビッグネーム揃いの手堅さを越えて(元の名舞台については全く知らない)、作者·映画それらの粋というレベルでもない、圧倒的固有世界が存してて、感服する。映画や作劇の常套のパターンに安易に乗ってるのか、乗り越えて破壊してるのか、どちらでもない、戯曲·演劇でも、絵やアクションの映画でもない、固有のものが刻まれ、遺されているに気づく。妙な色気が生なましさを越えて独自ですらある、食欲·金銭欲·棲み続け欲、らが恥じらいもなく躍動し、神へのやり取りも手前勝手な、ブラック·ローカルコメディだが、そこにも落ち着きはしない。
 序盤は、リアクションの表情アップの入るタイミングや、切返しを一枚の縦の図に納め直す確かな懐ろ、状況や動き(切返し)に合わせてのゆっくり寄ってってる移動、接近から揉み合いの多人数の絡みの90°変の切替える確かさ、らに驚く。只、その後は、退き全図や、顔とその視点的図への繋ぎに、拘らず状況を漏れなく正確に収めるに留まり続ける。
 その後、映画は映画さえ突き抜けた完全な世界の瞬間を何気に、しかし強く表し続ける。画面を横に駆け抜けてく姉娘のL、今度は末弟が奥から車で駆け抜け来る図に姉娘の目指す相手がよもやの危険に、柵に突進した末弟は怒って男に向うも人形のように投げられ·コロコロ転がされる·そればかりか傾いた車の下に入り仰向けにひっくり返し。その後、街の紡績工場より「この地に足着ける」救貧院がましと決める老父母の庭の落ち葉らが(ベルトルッチを凌駕する如く)果てなく舞い動き続ける。嘗ての地主が自分が持ってる50ドルで半年分の地代を払ってくれ、この10ドルで種·肥料得て収穫を、と言ってくれて、「神の貧への救い」「豊作の予感」を味わうも、本当に働きだすかは分からず、祖母行方不明にも平然。
 嘗ての開拓大農場も土地が痩せ、地主去り、多くがオーガスタに移り、不毛の地に、邸宅に住まわせてもらってる兄妹と、あばら家に子沢山も死んだり年に出たりで、2人の子と老祖母と犬と飢餓の日々の老夫婦。後者の一家の話がメインに。末妹に拒まれ逃げられ狂いそうな嫁ぎ先の男を食い物にし(、残った子の上の姉を送り込み)、夫死別·出戻りも保険金で肥え太り·布教活動に固まってる、邸宅住まいの妹の方が、末弟に惚れ18歳差を無視して再婚したので、そこから、必要金を引き出す算段をす。急に旧地主の子孫が落ちぶれ安住だけは約してくれた地代年100ドルの負担が回ってきたのの、当てにしよう·騙し取ろうと企む顛末。
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 フォードの最も脂ののりきった’30年代の後半を決定づける圧倒は、気品とその中での親しみ·連帯感であろうか。それは、この時期同時に世界を牽引した、欧州のルノワール、アジアの溝口にも共通しているが、ハリウッドの全盛期を利用しきったフォードのそれは、普遍性や多様性で後の2人に比べても際だってる気がする。『モホーク~』は明らかに初期テクニカラーの可能性を様々な方向に試し抜き、その最上成果を連ねた様な、企業サイドと作家サイドの折衷的な作品だが、衣装や暗みのグリーン、やはり衣装や焔の赤が、いつでも強く敷き詰められる強さを保ちながら、グレーや肌色といった押しの強くない透明度をたたえた正確なカラーを延ばしてゆく。紅葉、スモーキー、収穫、木材や家や砦、川や空の透明と曙、暗い中の潜み、澄んだ廃材焼き焔ら。斜めも入った正確な切返しや90°変全め、前後へやフォローのカメラ移動、どんでんや寄りアップ入れやローめ·天井収め、の正確さ。他砦への援軍頼み行の追われのシルエット人動き·曙空·林や材木抜け·をどんでんで捉えた延々め。適所適確音楽。様々なキャラの絡まりで確かめられる個性と絆の自然な核(敵先住民すら、逃げ出さない白人をベッドごと運び出して、自分らによる火付けから救わんとす。先住民の残酷さは、指導白人英人の資質と絡む)。
 米国独立戦争時に、NYの令嬢を先住民+英国人との前線にあたる、農場の嫁とした青年の、そこの砦を中心とした結束と成長の確認を描く。取分け、家と農場を焼き払われた後、雌伏を決めて使用人として入った大佐未亡人の、半端を許さずも人間の最も大事なものを伝えるスタンス。周りのフォード映画の常連の中でも際だっている。
 「君を使用人にはしない。やはり、NYから連れて来るべき人では。最初の夜で返すべきだった」「いえ、私はすすんで。ここで耐えて、いつか家と農場を」「亡き夫と戦って来たけど、彼の元へ。財産は、全て我が娘の様に思ってた貴女に。(私のコワモテにも怯えず、)本当に尽くしてくれた」「牧師の私が射殺とは。それでも、原則の信仰、愛、希望は変わらない」
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 『肉弾~』を初めて観たのは、VHSのビデオにおいてで、30数年前だったろうか。マクラグレンを始めとした個性豊かな俳優の活かし方、そのキャラたちのギャップの幅による、面白さ格別で傑作と思ったが、画質の悪さで多く粗末めのセットによる、小品めと思っていた。しかし、きれいな素材でみると、実際のロケ、かなり巨大な野外セットのウェイト画かなりあって、しかもそれぞれがピーカンの明るくクリアなトーンで互いの違和感なく、綺麗に繋り、纏まっている。バジェット的にも傑作のレベルに届こうとしているに感心する。フォードは決して作家主義の作家ではない。こんなセット·ロケセット·ロケの跨ぎを何の苦にもしないように、見せるパーフェクトなプロなのだ。ルノワールが偉大なアマチュアであるように。
 第一次大戦下、中近東の砂漠の英国騎馬隊。迂闊な士官が見えない敵に撃たれ、次位の軍曹がリードしていくも、戦闘目的·任地を告げられておらず、現在地も掴めていない。軍曹はそれなりに経験値と磊落性があるが、他の隊員は早くから怯えが蔓延している。偶然、オアシスと半壊建物に辿り着くも、経験を踏ませるつもりの新兵夜間歩哨が、知らず撃たれ·全ての馬も奪われる。移動不可能の中、次々どこからか撃たれ、死者が増えてゆき、不安と恐怖も増し、自ら撃たれに砂漠へ乗出す形の者も。取分け、元聖職者は、1人だけ残る(可能性)孤独の恐怖に狂い·狂信的決着に悪魔的に向かい、括られる。軍曹の心も荒廃してゆき、1人だけになった時、救援の部隊が到着する。
 決して統制されたスタイルではないが、様々環境を纏めあげた力量が、不思議な抽象魅惑力感空間を作り、フォード映画のテーマのひとつ、孤独の選択と内面世界が現れ来てる。マクラグレンは混乱も含めこなれた懐ろ全開だが、対比され(通じもして)る不安の塊りを、カーロフが見かけに反して見事な内面造型を示している。サイレントである到達点に届いたフォードの、トーキーでの最初の傑作と呼べる作だったかもしれない。
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