秋日和

ぼくら、20世紀の子供たちの秋日和のレビュー・感想・評価

ぼくら、20世紀の子供たち(1993年製作の映画)
4.0
日々、工場でパンが大量生産されているように、赤ん坊も毎日何人も産まれている。そしてその赤ん坊たちの何割かは、成長して泥棒や傷害を繰り返す、ストリートチルドレンになる。野良犬が保健所送りになるように、罪を犯した彼らは施設に送られる。
あまりにも分かり易いショットの繋ぎによって明らかになるパンー赤ん坊、犬ーストリートチルドレンの関係性はちょっと極端だけれど、「間違っている」と言うことなんて出来やしない。
カネフスキーは街や施設にいるそんな大量生産されたかのような子供たちにカメラを向け、インタビューを行なう。フレーム内をはしゃいで駆け回る子、難しそうな顔をして腕を組む子、煙草を吸いながら笑顔で応じる子等々、その顔は様々だ。「顔を撮る」ということ、それが映画にとってどれだけ重要なことかを、カネフスキーは十分すぎるくらい分かっているのだと思った。カメラを被写体の正面に据えたり、子供たちを鏡の前に立たせたりするのも「顔を撮る」ためなのかもしれない。
しかし、彼らはときに「顔」を背ける。そんな時、カネフスキーはフレームの外から「自分の目を見ろ」と呼びかけてみせる。それは勿論、罪を犯した自分自身を見ろ、という意味も含まれているだろう。

「人間は誰かを恐れるべきなのかしら」「恐れるべきは自分だよ」

映画の後半に登場するカップルのこのやり取りに、本作の大切な部分がギュッと詰まっている気がしたのは、まさに「自分と向き合うこと」の意味が台詞で提示されたからだと思う。
映画のラスト、思わぬ形で「顔たち」と再会することになるのだけれど、とても吃驚したのは、その「顔たち」のことを自分がハッキリと覚えていたからだ(自分の記憶力が優れている、という意味ではないです、決して)。つまりそれは、カネフスキーが大量生産されたかのような、どうでもいい対象として子供たちを捉えていたわけでは決してなかった、ということに他ならない。譬え画面的に印象に残りそうな「顔」をちゃっかりと選んでいたのだとしても、とても感動的な演出だと思った。カネフスキー、ご存命のうちに(短編でもいいから)もう一本撮って欲しい。