スーダラ

シベリアの理髪師のスーダラのレビュー・感想・評価

シベリアの理髪師(1999年製作の映画)
3.7
https://cinemanokodoku.com/2019/11/28/siberia/

久し振りに重厚でどっしりと腰の据わった映画を見ました。
しかしこの映画にはそれだけではなく生き生きとした躍動感や一種の軽やかさみたいなものもあります。

それはちょうどオーケストラのアンサンブルのように。

堂々とスクリーンに現れる広大な自然や20年という歳月を重厚さだとするな らば、それらと一体となり、ハーモニーを奏でた軽妙さは何だったのでしょう か?

僕はそれを「人の愚かさ」だと感じました。

僕はこの言葉を「ただの弱さ」と同じ意味には使いません。むしろ強さにさえ 近いものだと思う。愚直なまでの強さ、愚を貫き通せる強さ。
誰もいない部屋の鍵穴に向かって自分の気持ちを伝えようとするジェーンや、 納屋の中に隠れ、鎌を持ち息を潜める妻(元メイド・名前失念)など女性達に もその愚かさを見ることは出来るのですが・・・。
なんと言っても男たち。男はなんと愚かで、男が戦う動機も戦う武器も愚かさ しかない、男の存在自体が愚かさなのではないかと感じました。
それは「シベリアの理髪師」というパロディを真剣に演じるような愚かさとでも言えばよいでしょうか。素人の余興だと、それを見つめる大公たちは穏やかに笑うばかりです。しかし、大切な友人のことを心から心配し、ビショビショに濡れた衣装で舞台に立つ若き士官たちにとってそれは陽気なパロディなどで はなかった。そして若いアンドレイの愚かさは「強く」真っ直ぐで、決して上辺だけの軽やかさで理髪師を演じることなど出来なかったのです。
彼らの愚かさは決してただのパロディを軽軽しく演じるような愚かさではない!

凍てついたシベリアの森をけたたましい音を発しながら進むマシーン「シベリアの理髪師」そして刑を終え北の大地で暮らすアンドレイの家に掲げられた表札
「シベリアの理髪師」
これらを目の前にすると、彼の演じていた、彼ら皆が演じていたパロディの壮大さに圧倒されます。しかも彼らは最初からわかっていた厳しい運命に自らあえて進んでいったような気すらしてくるのです。まるでパロディを演じるように。妻の知らない思いを込めた「シベリアの理髪師」という表札にまた、彼の愚かさと愚かさゆえの強さを感じないではいられません。

「モーツアルトは偉大な作曲家だ!」

彼の偉大さは重々しさと軽やかさの両方に決して一筋縄では行かない凄まじいまでの激しさが実はあるからなのかもしれません。
スーダラ

スーダラ