ニューランド

無花果の葉のニューランドのレビュー・感想・評価

無花果の葉(1926年製作の映画)
4.1
初めてという訳ではないし、都合で数分遅れて入ったし、画質が昔のVHSビデオのコピー並みという今時珍しい位の酷さなのに、この面白さは反則だなぁ、と呆れて同じ会場にいた知人と話した。その人は、「ホークスって、新人・サイレントの頃から既に天才だったんだ」と続け、私は「そりゃあもう、アメリカ映画史上の最高の監督なんだから」と返した。先人のグリフィス・チャップリンも、同年代のフォード・ワイラー、その後のウェルズ・キューブリック・コッポラらと比べても、これほど永く驚異的なアヴェレージを保ち、同時に賞の栄誉と無縁だったひともいない。チャップリンの死の翌日に亡くなり、日本のマスコミも取り上げかたが小さかったが、「少なくともチャップリンを下回ることはないその業績」と学校の新聞に書いた。
とにかく、ふんぞり返って眺めてる暇のないギャグや(内的)アクションや絡みの、面白さ・密度・フランクさの絶え間ない引き込み。何も考えなくていいのだが、知らないうちに、こちらの内面に、信じがたいバランス・高度の世界・宇宙が権威無縁の自然さで構築されてる。台詞・仕草とふるまい・リアクションの奇異さとしっくり安心、強烈で親近感極まりないキャラ、常識では無意味な仕掛けの(内的)大きさとその瓦解の透明感、緩み・無駄のない対応・サイズ・平面的で立体的な角度取り・効果的移動・第3者介入・等透明平易の完璧デクパージュ、崩れぬも・一般的より1歩せっかちに速めるか呑気め延ばして・引き込むギアチェンジ、そしてあまり考え付かぬ冒険的手法にチャレンジの無心・気負い無さ(本作だと太古・現代の時代の往き来・呼応、ハリボテ巨大恐竜・古代のメカニック、現代の未来センス・スケールのファッションショー、向き合った二人の対応カット切換えを更に詰め盛上げる都度ディゾルヴ使用のシーン)、(たいそうな映画では取上げられもしない)どうでもいいこだわり(本作・都度「着てくものがない」)の取り上げ、それが本能と化して止められず動きつづける人間たちの(せつなくあほらしくも何故か高貴な)描写と・それをかきみだし止め混乱させる(魅力ある)者の存在・その対立の意外でニンマリの合流点。
所詮、この作家への注目は、発見ではなく、受け売りでしかないが、それを教えてくれた山田宏一さん(キネ旬連載のその名も『シネ・ブラボー』で)に、後年たまたま映画会場で隣合わせで座ってしまった時に、「あなたは山田さんの知り合いではないでしょ」と席を譲れと無茶苦茶な論理で割り込んで来た編集者に嫌悪を現さずも歓迎もせずに始まった会話が洩れ聞こえてきて、気づいた小さな間違いのことを申し上げたのが、少し後掲載の雑誌文章で律儀に修正が折込み反映されていたのには、その誰にも分け隔てない尊重の姿勢には、驚きおそれいった。
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