映画漬廃人伊波興一

シャッター アイランドの映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

シャッター アイランド(2009年製作の映画)
3.4
思わず「カリガリ博士」や「狂った一頁」が亡霊となって21世紀に舞い降りたかと見紛いますが、いささかも不快さを招かない不思議な機能の働き

マーチン・スコセッシ「シャッター・アイランド」

公開された時に何となく観そびれていた「シャッター・アイランド」に接して硬直しました。

もの凄い傑作だったという意味ではなく、こちらの表情が歪むような禍々しいスコセッシ特有のバイオレンスの(傷痕)が希薄だった事に加え、その予定調和ぶりに、(定石)という言葉さえ軽々とこえた、余りに素朴なスリラーとして仕上がっていた印象を抱いたのです。

これは名高い古典「カリガリ博士」や「狂った一頁」がスコセッシの手を借り、21世紀の今になって亡霊として現れたのではあるまいか、と。

そのくらい「シャッター・アイランド」という映画は、歪曲なニュアンス一切に欠け、登場人物も、筋の展開も、あらかじめ用意された輪郭に素直に収まっています。

そもそもタイトルからして直訳すること(孤島)、しかも舞台はその中の精神病院。

「シャッター・アイランド」が公開された時の惹句にはやたら謎解きのアピールが目立ちましたが古今東西のミステリー、スリラーに通じていなくとも、こんな所が舞台であるなら自由を求めて逃げ出したい主人公が、結末には閉じ込められてしまうに違いない。いやむしろ真の自由は、まさに閉じ込められた空間の中にこそあるという、ハッピーエンド(もちろんスリラー特有の、重く暗い余韻という意味で)が用意されているだろうと。
勅使河原宏「砂の女」やサミュエル・フラー「ショック集団」 J・J・エイブラムスのテレビドラマ「LOST」などを例に挙げるまでもなく、そんな映画やドラマを履いて捨てるほど観てきた私たちです。

そして出来過ぎたフィクションを自粛するような独創的な人物もここには存在しない。

ベン・キングスレーやマックス・フォン・シドーが登場した途端にこの手の映画が好きな方なら、彼らがどんな役割を担うかなど一瞬で氷解するでしょうし、レオナルド・ディカプリオの相棒マーク・ラファロがただ者でないことも上映開始から37分あたりで薄々感じてきます。そして事件調査のために尋問に応じる精神病棟の患者たちにしても、失踪していた女性エミリー・モーティマーさえ、それぞれが個性的な印象を残しながら定番通りサスペンスの醸造に貢献していく。

さらにスリラー必須の(トラウマ)が当然存在します。
しかも、というかやはりそれは、殺しの記憶。
ここでは(ナチス狩の元軍人)としての記憶ですが、これとて時代背景が1950年代によるものでしょうから、アメリカ映画トラウマ形成の常套手段(ベトナム帰還兵)と大きな差はありません。

亡き妻や家族が登場する幻覚にしても、同じディカプリオが主演したクリストファー・ノーランの「インセプション」で妻が登場する夢の場面よりはさすがに年季が違うな、という程度の感慨しかもたらさない。

至るところで驚きを奪う「シャッター・アイランド」を「カリガリ博士」や「狂った一頁」の亡霊か、と思わず口走ったのはそうした理由によります。

それなのにこの約140分(余談ですが少し長い。編集をシャープにすれば100分余で充分だと思う。この作品に限らずクリント・イーストウッド作品を除いて21世紀のアメリカ映画の話題作はこれといった理由もないのに尺が長い💧)に些かの不満を覚えなかったのは、それまでスコセッシ作品に通底している贖罪というモチーフに、処女作の『ドアをノックするのは誰?』や壮大な失敗作「最後の誘惑』(1988)の時のように過度なほどの透明な姿勢で接している潔さにあります。
それが(無冠の帝王)の異名を取っていた渦中ではなく「ディパー・テッド」でアカデミー監督賞を勝ち取った後である事がとても重要だと強く言っておきたい気がします。

かつてカトリックの神学校に通い神父になることまで夢見ていた時期さえあったスコセッシです。
アカデミー監督賞如きで自分の作家使命が、ついえる訳ががない。
壮大な失敗作「沈黙 -サイレンス-』(2016)で、くじく筈もない。

「シャッターアイランド」という映画は「ディパーテッド」への他ならぬスコセッシ自身による挑発としての機能が観ている私たちに働きかけます。
俺の時代はまだまだこれからだ、と。

ある雑誌の記者によるレヴューではこの映画は(大変難解)なだけの映画だと紹介されていました。思わず含意ある笑いを覚えます。恐らくこの方はこの世の有象無象の事件諸々、異常猛暑や大寒波にさえ、大変難解だ、と唸るに違いない。
尋問場面に登場する女性患者のメモのように口走りたくなります。
ならば早く 「RUN(逃げて)」!