Jeffrey

東京戦争戦後秘話 映画で遺書を残して死んだ男の物語のJeffreyのレビュー・感想・評価

3.0
「東京战争戦後秘話」

冒頭、一九六九年秋。一人の男が独り言を言っている。カメラを警察に没収、追う。全共闘運動、七〇年安保、仲間、集会、映画、風景、編集、追跡、部屋、再現、車、自殺、問答。今、沖縄デーと"あいつ"を巡る話が展開する…本作は映画で遺書を残して死んだ男のフィルムをめぐって、前衛的な手法で展開する風景論映画の先駆的な映画で、若松孝二作品と類似する。昭和四十五年に大島渚がATGで監督したモノクロ映画で、当初いくつかの長い映画タイトルだったそうだ。この度、久々にDVDを購入して鑑賞したが面白い。音楽は武満徹である。本作は全共闘運動が行き詰まりを見せ、大衆路線から離反し過激化しだした頃の都市を収め、イデオローグを巻き込み、議論の的になったー本である。大島曰く、本作は人はいかにして死ぬことができるか、と言う問いへの答えである…との事である。



本作の冒頭は、主人公の男とみられる影がスチール写真で写し出されて、そこにスタッフ、キャストの名前が音楽と共に現れる。そしてその影が消えて、手ぶれの雑な映像が写し出される。さて、物語は、一九六九年秋。全共闘運動は七〇年安保を目前として一段と高揚し、過激化の一途をたどっていった。そんな時に元木象一はセクトを離れ、仲間と自主映画制作に没頭していた。一九七〇年四月二十八日の沖縄デーの闘争運動を記録しようと撮影に行った時、彼は私服警官に十六ミリカメラを奪われ、後を追って走っているうちに奇妙な幻想に襲われる。それは彼の仲間のー人、"あいつ"が自分のカメラを借りて、何かを撮影し、その映像を遺書のようにしてビルから投身自殺をすると言うものであった。

意識を取り戻した彼の前で、仲間たちがカメラの争奪闘争をどう展開するか議論している。みんなが帰った後、象ーは恋人である泰子と歩きながら、あいつのお通夜をどうすると問うが、彼女は不審に思っていつ?と問いただす。さっきだよ、今日の午後だよと答える象ー。混乱する彼に彼女は今日ー日の出来事を話す。四・二八の沖縄での統一集会を記録する前に千駄ヶ谷で集まって、機動隊に囲まれた道を通って明治公園に着いた。乱入するセクトを機動隊が阻止し、デモ行進に移る。象ーが私服に気がつき、カメラを奪われる。彼はそれを追いかけていった、と…。

象ーはそれからあいつが遺書代わりの映像を残し、投身自殺したと言うが、にわかに信じがたい。いつの間にか彼は泰子があいつの恋人だと思い込み、野原で強引に犯す。象ーはあいつが残したフィルムを仲間とともにみる。民家の二階から撮影したとおぼしき屋根が連なる光景、酒屋のある商店街、ガードレール、高架下を走る車とその脇にある郵便ポスト、線路脇のタバコ屋、林立ちするテレビアンテナ。それはどこにでもある平凡な風景だった。仲間たちはカメラの争奪闘争について話し合う。やがて一同は象ーと泰子を残して帰る。彼女は紙袋からフィルムを取り出す。お前もその映画見たよなと問い詰める彼に、彼女は頷き、遺書にしようと思ったんでしょうと答える。彼は街を歩く。あいつの気配を感じて仕方がない。彼女がついてくる。気がつくとあいつが撮ったフィルムの風景に似た光景が目の前にある。あいつなんかいなかったんだと象ーは叫びだす。

二人は部屋に戻り、フィルムを映写機にかける。泰子の裸の上を乱暴にあたりの風景を写しただけの映像が被さる。像一は我に返り、仲間のもとに行き、編集中のフィルムをビューアーで覗き込む。そこには乱暴に風景を映した映像があった。彼は思わずあいつが撮ったんだ!と叫ぶが、仲間はそれはフィルム交換の時に空撮りしたものだと言い、相手にしない。泰子と共に自分の部屋に戻った彼はフィルムを映写機にセットする。先ほどと同じ何でもない平凡な風景が写し出される。彼は彼女を抱きながら、これみろ。あいつはこんな薄汚い映画を残して死んだやつだと叫ぶ。薄汚くなんかないわ。死ぬ前に撮った映画ですもん、見てみろ、これの何処が美しいんだ、何なの、何が写っていんの、泣けてくるような風景だ。そこらに転がっているような薄汚い風景だ、嘘つき。もっと良いものが写っているはずよ。あなたには見えないのよ。見えてねーのはお前じゃないか…。

果てしない問答が抱き合う二人の間で繰り広げられる。こうして二人はあいつの痕跡を追い求め、あいつが撮影したはずの風景をたどっていく(東京風景戦争)を展開する。二人はその過程でいたるところに、あいつの気配を感じる。象ーは幻想のあいつを追いかけ回す。自動小銃を持って象ーが疾走する。泰子が後を追う。あいつの気配を追って、住宅地を曲がり、二人は一軒の民家にやってくる。表札には元木の文字。そこは彼が生まれ育った家であった。象ーの部屋に仲間たちが集まってくる。仲間たちは、フィルムを映写機に描けて、映写してみる。乱雑に撮影された映像がリーダーフィルムで荒っぽく繋がれている。幻想の中で彼は先程の家を訪ね、二階の窓を開けると、あいつが残したはずのフィルムの冒頭に写っていた屋根が見える。傍には象ーの母親がいる。

象ーはあいつの映した映像の風景と同じ風景を撮影しようと試みる。そのアングルの中に泰子が現れ、邪魔をする。走ってきた車に跳ね飛ばされる彼女。彼はカメラを通行人に預け、彼女を乗せた車に同乗する。助手席にいた男が彼女を犯す。それを彼はじっと見つめる。運転手が彼女を犯す。彼女の見た視線で車から見える風景が流れていく。勝ったわと泰子。あなたにも、あの人にも。どうしてそんなことわかるんだ、だって私何も見なかったたんだもの。あの風景なんか何も、それで買ったつもりか。結局、お前、あいつに勝てなかったな。そんなことないわ。私が車の中から見ていた風景はあの人の風景じゃなかったもの。風景なんて同じだよ…。

噛み合わない議論の果てに彼女が走り出し、ビルの屋上に上る。象ーがカメラを手にして風景を撮影する。仲間たちがそれを制止する。彼は振り切って走り出し、ビルの屋上に駆け上り、身を投じる。転がる彼の死体。傍にはカメラが転がっている。何者かの手が伸びてカメラをひったくって去っていく…とがっつり話すとこんな感じで、大島渚曰く、死者への鎮魂歌であると語っており、おそらく自分の作った作品の中で一番苦労した映画とも言っているようだ。確か当時過激派の学生たちの間で、東京戦争あるいは大阪戦争と言うことがしきりに言われていて、この作品のタイトルに「東京戦争戦後秘話」を使ったと語っていたような気がする。しかも略字を使って。

この作品も大島渚の作風の中では難解かつ実験的な作品で嫌いではないが、決して人にお勧めことのできない難しい内容の映画である。ここまで思想的概念を提示した作品は毛嫌いされることも多いだろうし、議論も活発に行われる。そういった風間論と呼ばれたアクチュアルな理論映画がまさにこの作品である。多分タイトルの"戦後"と言う部分においては、高度経済成長期の日本においての圧倒的な国家警察の力によって弾圧を受けたー部の運動家(武装闘争路線の思想を持つ者)が革命運動全体に火をつけると言う事柄が、徐々に下火になっていった経緯を遠回しに表している文字だと思われる。今思えば共産主義者同盟赤軍派の結成当初の方針だったり、革命のための武装蜂起の前段階だったり、交番襲撃など物凄いことが繰り広げられていた時代だった。昭和はいい時代だったと言う人もいる(自分もそうだが)このような部分は最悪だったと思える。

本作もそうだが若松孝二の作品でも永山則夫の存在はやはり濃厚に映画に出ていると感じ取れる。今思えば「夏の妹」を最後にこれまでの大島渚の帝国主義反対映画がなくなっていき、「愛のコリーダ」から新しいジャンルで挑み続けた理由と言うのは、やはりアートシアターギルドから出した「儀式」で全てを出し切ったと言う感じがやはりあったのだろう。それにしてもこの作品の主人公である後藤和夫が撮影時十八歳だったことに驚く。ダンディーなヒゲを生やしていて今の若者とは大違いである。その若さで永田町の周りを必死に走る姿は印象的だったなぁ。
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