タマル

ドゥ・ザ・ライト・シングのタマルのレビュー・感想・評価

ドゥ・ザ・ライト・シング(1989年製作の映画)
4.4
最近、上野千鶴子さんの東大入学式での祝辞が話題を呼んでいますね。私はこの人を「いつまで被害者でいるつもり」論争で初めてはっきりと認識し、ずいぶんと「かます」人という印象を抱いたのですが、祝辞の内容をみる限り、印象は正しかったようです。

「いつまで被害者でいるつもり」というのは、大雑把にいえば現在のフェミニズムに対する疑義。男性に踏みつけられた女性、その「被害者」的側面での団結は、むしろその二項対立からズレるマイノリティをマジョリティとして、加害者として、抑圧するのではないか、という議論だったと思います。そして、その通りの現象が現在進行形で起こっていたりします。

ツイッターでは前に
「女性だけの街が欲しい」
「夜中に男性の暴力に怯えずに歩ける女性だけの共同体が欲しい」
といったツイートがなされ、勝手に転載されて勝手に賛否両論になっていました。少なくとも、私のフォローしているフェミニストは留意付きで賛成の人が多かった気がします。そういう主張が出るだけの根拠はあると。
仮にそんな共同体ができたら、本作のブルックリンの人種比に似た感じの男女比バランスになっている気がします。

そこからしばらくして、御茶ノ水女子大学がmtfの入学許可を表明すると、一部のフェミニストがトランスジェンダーへの攻撃を始めました。理由は「恐怖心」です。彼女たちに対して、(唐突に)トイレや更衣室、銭湯を引き合いに出して、「男体持ち」などの憎悪を投げかけました。女性かどうかを判断するのは性器と染色体である、などと従来の議論の積み重ねを否定するような暴挙にも踏み出しました。
「女性だけの街が欲しい」
その理想の隠された暴力性が一気に顕在化したと見るべきでしょう。

私は、本作をそういう映画として見ました。
FIGHT POWER!! その力強いスローガンに秘められた暴力性。
多様性を認め合う社会を目指す。そこにこそ黒人への不平等の是正の圧倒的正義があったはずなのに、それが逆に黒人以外の排除へと振れてしまう。
「黒人だけの街」、とりあえずの安定は得られたでしょう。異物に対し、不安や不満を覚えることはないでしょう。
しかし、本当にそんなことで黒人であることに誇りを持てますか?
彼らは民族的アイデンティティを抱くための差異である他者を廃してしまったがために、もはや鏡の虚像でしか自分の姿を認識できなくなってしまったのです。
鏡の自分に誇りを抱くなんて最高にバカらしい。


少なくとも私は、いつも排除される側の立場で何かを語る人間でありたいと思うのです。
仮にそれが正しくなかったとしても。
タマル

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