川田章吾

ドゥ・ザ・ライト・シングの川田章吾のレビュー・感想・評価

ドゥ・ザ・ライト・シング(1989年製作の映画)
4.7
差別って何なのかを問う渾身の作品。
テーマをぶれさせないためほとんどシーンを変えず、その一方でカメラを固定しない斬新なやり方で、見ているこちらの思考をグラングラン揺さぶる。
タイトルの「Do the Right Thing」の正しさとはいったい何なのか。私たちに正面から問いかける。

先ず差別を扱った映画で似たようなメッセージ性を持ったものにディズニーの『ズートピア』がある。
この作品では、動物の世界で人間の社会における差別をデフォルメしているのだが、差別の「構造」に着目しないと全体のテーマが見えてこない。

作品(『ズートピア』)の冒頭では、肉食動物の草食動物への歴史的優位性を説明しているが、民主化したことにより今度は多数派を形成する草食動物が肉食動物を差別していく。
つまり、差別というものは、構造的に起きてしまうものであり、社会の中の「権力関係」を理解しようとしないと、根本的な解決にならないことを提示している。

ネトウヨの皆さんは、よく韓国の「反日」だったり、女性や障がい者など社会的マイノリティが権利を主張すると「逆差別」とか「特権」とか言い募るが、それはこの「権力関係」を理解していない。
日本社会では、歴史的・社会的構造が日本人の男性優位に形成されてしまっているため、こちらが求めていなくても「男性優位の構造」になっている。
(もちろんだからと言って男性への差別がないわけではないが、社会的少数派と比べると圧倒的に少ないということだ)

逆に、日本人の男性でも、海外に行くと外国人になってしまうため、権力関係の優位性を失い差別を受けることは多くなる。

こうした内容を理解すると、この「Do the Right Thing」では、黒人街でピザ屋を経営しているイタリア人の白人サルは差別される対象になってしまっている。
黒人のカルチャーを受け入れず自己のアイデンティティを守ろうとするサルを、本来アメリカでは社会的弱者であるはずの黒人や障がい者が弾圧しようとするのだ。
この構造はまさに、『ズートピア』のテーマと一致している。

しかし、監督スパイクリーの粋なところは、このテーマをさらに超えて差別の本質を問い直そうとするところだ。
実際に、劇中、黒人街を形成し権力関係で優位に立っているはずの黒人たちは、外部から来た本当の権力者である白人の警官に弾圧されてしまう。
白人警官のラヒームの殺害は、アメリカ社会ではよくあることであり、黒人たちが自分たちは支配者であるという幻想を打ち破るシーンとして象徴的だ。

それだけではない。 

サルのところで働き一見するとサルから信頼を勝ち得ていたと思われるムーキーが、サルの店の破壊に一番最初に手を貸す。
サルの店では、白人が中心の社会が形成されていて、サルの息子は白人至上主義の考え方だ。そのため、ムーキーは日々、自分への差別にストレスを感じ、暴動に手を貸すのだ。
つまり、どんなに小さな社会でも「権力性」というものは必ず存在し、それに無自覚だと必ず差別は起きてしまう。

それは私たちの経験でも小中高で教師が生徒に「無自覚」に権力を行使していて嫌な思いをしたことと根は同じである。

そして、スパイクリーの怪物的なところは、じゃあその差別をどう解決していくかで対話(キング)と暴力(マルコムX)を並列しながら、私たちに問いかけている。




差別は良くないと言うのは簡単だ。
それは、道徳の授業で言われるうざったいほどの正論である。その一方で、差別は頑として私たちの社会に必ず存在する。
なぜなら、私たち人間は必ず社会を形成し、社会がある以上必ず権力関係が存在し、権力関係がある以上、必ず差別も存在するからだ。

さて、それではもう一度スパイクリーの問いかけるテーマに戻ろう…
あなたが(教師の言う上っ面の差別をなくしていこうキャンペーンでなく)本当の意味で差別をなくしていくためには、いったいどんな(正しい)行動を取れば良いのでしょうか?
川田章吾

川田章吾