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デジモンアドベンチャーの堊のレビュー・感想・評価

デジモンアドベンチャー(1999年製作の映画)
5.0
たとえば纏い付く『ミツバチのささやき』の名前を無視したとしても『鬼太郎』113話で負け続ける幽霊たちの棲み家を『ミツバチのささやき』の家畜小屋そっくりに演出していた人物の名前が細田守だということを我々は思い出さずにはいられないし、今作でのセリフを単なる音の一部としか捉えていないような発話とボレロを絡めた演出を見れば我々はあの狂気じみた『秘密のアッコちゃん』14話「チカ子の噂でワニワニ!?」を思い出さずにはいられない。そして不幸にも『サマーウォーズ』以前/以降でしか語られなくなってしまったこの作家がかつては極めて優れた喜劇作家であったことを発見する。そしてかつての『デジモン』以前の作品での笑いが高密度なレイアウトによって醸し出されるノスタルジーを伴っていたことに気づくとき、我々はもはやアッコちゃんや鬼太郎では笑えなくなっているだろう。「人生はクロースアップで見れば悲劇だがロングショットで見れば喜劇だ」というチャップリンの言葉を引くまでもなく、むしろ「言葉は物語世界の外部にあるが、内部にあっても、内部とは異なる意味作用を観客に示して機能する」ことを掲げたエリック・ロメールへ共感するように彼が松浦寿輝の『映画nー1』と『監督小津安二郎』を手元に置きながら(しかし開くことはなく)ただひたすらに『アッコちゃん』のシナリオと格闘した彼の姿を忘れてはならない。だからこそ本作における音との戯れを具現化したかのようなボタモンの吐くシャボン玉の泡と笛の音とのアニメーションに細田守のひとつの完成を見るのだ。
ところで細田守の代名詞と化した”なぜか映りこむ道路標識”はなぜ画面内に映り込むのだろうか。ひとつにそれ自体がアクションを作り出すということが考えられる。動くアニメーションにおいてただひとつの不幸は「動いてはいけない」ということだ。細田守世界で標識が提示されるとき、生命感をもって画面内を動き回っていた登場人物は止まることを強いられる。すしおの描くどれみであろうと、松本憲生や今石洋之の名を持ってしても細田守の標識に抗うことはできなかった。止まる=止まる姿の提示はそれだけでアクションになり得る、そしてその予告としての標識。ではたとえばもしTVアニメーションに枚数制限がなかったとしたら細田守は作家細田守として成立していたのだろうか。数多の映像作家におけるピンク映画がそうであったように、東映アニメーションの養成制度がその機能を果たしていたことはアニメ史を辿らずとも放映され続けているリアルタイムの作品群が証明している事実ではあるが、そこにアニメーションの枚数制限と絡み合うようにして(それこそネットの海から自生的に突然変異したディアボロモンのように)アニメ界に出現した細田守の名は加えられるのだろうか。当然のごとく一枚絵との違いが「動く」ことの一点でありながら動くことを禁じられるTVアニメーションという二律背反の上で彼は強烈な作家性を放ち出現した。我々はここでいまあらためて出崎統の名を思い出してみてもいいのかもしれない。エースをねらえ!の分裂し続ける画面、ガンバの冒険での絶望的な遠さを提示したレイアウト、劇場版とっとこハム太郎での画面内を横溢する運動、彼もまたリミテッド・アニメーションの中で戦い続けていた。しかし彼の演出が単なる形式のみにとどまっていたことがかつて一度でもあっただろうか。そして細田守の作品世界では多動症的に動き回る「バカ」がたとえどんな状況であっても標識によって止まることを要求されていたことを思い出してみよう。もちろん一概に細田守個人の作家性に帰すべきものではないと付言した上であえて言い切ってしまうならば、細田守の作品の多くが「バカ」を巡る物語だということだ。「バカ」とはなにか。それは細田守の言葉を直接引くならば「道徳的な言説から解き放たれ」、「昨日とは違うことを喋る」存在にほかならない。
だからこそ彼の作品では眼鏡が頻出するのであり、カメラの位置はより低く置かれる。それは「バカ」からみた世界であり我々の今認識している世界とは違うことを表す。そして鏡に映し出された登場人物たちの姿は歪み、我々に提示される。ではそれを見ている私たちは?はたしてバカではないと言い切れるのか?作品内倫理の全てが狂っていたとも言える(からこそ駆動している)アッコちゃん14話の最後が魔法を使ってすべてを解決した(と思いこんでいる)アッコの姿を後ろから引いて捉えた姿であったことを思い出してみよう。我々はアッコがすべてを解決したあとで笑っているのか泣いているのか判別することができなかった(ちょうどアッコ自身も笑っているのか泣いているのかわからない”微妙な”声を出す)。強烈な作家性をもった形式主義者たる細田守自身がインタビューでアッコについて語った際に用いた”「バカの地平」の彼岸”を念頭に置いた上で我々はこれまでの言説から開放された細田守の姿を捉える必要があるのではないだろうか。入道雲、信号、「ガラス」さえも、そして彼の作品そのものが我々が目をそらしている一瞬の間にもう既に違う姿になっていることを彼の作品は教えてくれる。
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