レインウォッチャー

トーク・トゥ・ハーのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

トーク・トゥ・ハー(2002年製作の映画)
4.0
深い谷に石を投げる。

事故で昏睡から醒めないダンサーのアリシアと、面倒を見る看護士・ベニグノ。そして、やはり試合中の事故で同様の状態となった女闘牛士リディアと、恋人で記者のマルコ。
二組の男女が数奇な引力で引き寄せられ、男たちは友人になる。悩むマルコに、ベニグノは自らの愛の在り方を語るのだが…

インモラルな愛の形を通して、人同士の会話、コミュニケーションとは何か?を奇天烈な角度から深く掘り下げるような作品だ。

偶然見かけたアリシアに魅せられ、なんやかんやで彼女の看護士に収まるベニグノ。だが、そもそも彼は彼女に「恋」していたのだろうか。
ここはアルモドバル監督らしく、母の代理として見ていた可能性が考えられる。ベニグノは献身的に寝たきりの母の介護をしているのだが、やがて母は亡くなってしまう。
窓からバレエ教室で踊るアリシアを見つめる際、壁には若き日の母と思しき写真がかかっていて、その姿はどこかアリシアに似ているようにも見える。一方、現在の母の姿は画面に映されない。母の死後は、入れ替わるようにアリシアが彼の介護対象となるのだ。

彼には庇護欲を満たす存在が必要で、それはいわゆる恋愛感情とは別物であると考えられる。精神科医であるアリシアの父が「特殊な思春期を歩んだ」と診断したように、彼はそのようにしか愛情を持てない、示せない人だったのかもしれない。

ともあれ、ベニグノとマルコは出会う。「彼女に話しかけるんだ」とマルコに促すベニグノ。その姿は献身的に見えて一方通行ともいえ、無垢の裏にあるエゴイスティックな一面が浮き彫りとなる。

ベニグノのインパクトに引きずられるが、マルコの動向も重要だ。
彼はベニグノと対照的に、植物状態となったリディアをどうしても元の生命ある彼女とは同一に見ることができず、悩む。ベニグノのように寄り添って話しかけたりすることができないのだ。

じゃあ彼はドライな人物なのかといえばそうでもなく、バレエや音楽といった芸術(※1)に触れては涙を流したりする。
それはとある「過去」を想っての涙であることが後々明かされるのだけれど、つまり彼は真の意味でリディアを見つめることができていなかったのかもしれない。彼もまた、コミュニケーションから相互性を取り落とした人物だったのだ。

ベニグノとマルコが惹かれあったのは、境遇の近さもさることながら、そのような精神的な相似性によるものだったのではないだろうか。ともあれ結果的に、マルコはベニグノの行動を批判しながらも、ベニグノが残した奇跡としか言いようがないある結果を目にして、最終的には彼の部屋とともにその思いを「継承」することになる。(※2)

この映画はマルコがある女性と出会う場面で終わり、二人の関係性が発展していくことが示唆される。
しかし、結局のところマルコにとって彼女を過去の「誰か」を思い出す触媒のような存在であり、同じことが繰り返されるのでは?とも考えさせられるところだ。

今作は、コミュニケーションとわたしたちが呼ぶ行為が、そもそも一方通行性から逃れられないことを語っているようにも思う。それはベニグノやマルコだけでなく、休憩室の看護士たちや闘牛のスタッフたちが勝手に喋る噂話からも伝わってくるところ。

どれほど心からの言葉をかけたとしても、結局のところ相手に意図通り届いているかは永久にわからない。相手が生きていようが眠っていようが、そして死んでいようが…究極的には同じことといえる。
ここにおいて、真実などはもはや話し手と聴き手いずれの中にもなく、空中のどこかに浮かんでいる。それはまさに、ラストシーンでマルコと彼女との間に置かれた空の座席のような地点だ。
それを探りながら互いに錯覚して行くことが会話であり、真空地帯に運命を引き寄せることができれば、時には愛なるものにたどり着くのかもしれない。

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※1:しれっとピナ・バウシュやカエターノ・ヴェローゾが出てきてびっくり。

※2:男二人が友情を一、二歩踏み超える域まで親密になるところもまたアルモドバル節だけれど、今作は性愛ではなく精神的な「同化」として結実させている。哀愁すら感じるような後味。