ゆん

殺し屋1のゆんのレビュー・感想・評価

殺し屋1(2001年製作の映画)
4.9
紫のジャケットに裂けた口の垣原がジョーカーならば、バットマンは間違いなくイチだ。
黒いコスチュームに身を包み、踵の仕込み刃で人体を真っ二つにする様は馬鹿馬鹿しいほどキマっている。
ただ悲しいのは、イチには正義を盲信するほどの強い心と鈍感さがなかったことだ。


三池崇史のプロフェッショナルぶりに惚れ惚れとしながら観ていた。
漫画原作だが、常に元となった作品の良さを十分に理解しつつ、既知のファンと未見の層に発信できる最大公約数的表現を正確に射ぬいてくる。
100ある表現のうち、95はほぼ原作をなぞる作業に徹底している。漫画表現を映画に移すという流れで、観た者におおむね原作通りという感想をもたせるというのは相当な離れ業なんじゃないだろうか。それをいとも容易くやってのけ、ジャンルにおもねらず、あたかもジャンクな作品かのように観せる懐の深さがある。

さて本作に於いて、その5%の独創性といえば垣原のキャラクターだ。性欲が全ての起源であり、被虐の喜びによって突き動かされる原作とは異なり、映画版垣原は極めて表面的な恐怖の記号である。
周囲に恐怖をばら蒔く垣原は、自身の痛々しさを披露する時にこそ最も輝く。毛深さや脂っこさが消え、女性ウケしそうな容貌に変わった彼は、画面に映るだけで華やかで観るものを楽しませる道化に徹してくれている。
例えば寺島進をサスペンションで吊るしながら熱した天ぷら油をぶっかけ、その落とし前として自分の舌を真っ二つに切る、というエピソードだけで、彼がどれ程楽しい人物かが伝わると思う。

垣原の持つ変態性は、登場人物や読者からの嫌悪、侮蔑、尊敬をもって完全となる。そういったパフォーマー的側面を拡大して描かれた垣原は画期的で、一見異なるキャラクターにも見える両者だが、漫画版垣原をとても端的によく表現できている。

垣原とイチに通ずるものとして、他者への期待値の高さがある。
垣原は被虐の喜びに飢え、イチは被害者意識と相反する加虐性に苦しみ、いつだって爆発寸前。SM行為には高いコミュニケーション能力が求められる為、社会不適合者の二人は常に満足する結果が得られない。
そもそも二人の持つ欲望はおいそれをプレイとして行える範疇を超えており、このような難儀な性癖を持ってしまった以上は粛々と二次元の世界で発散するほか無かろう。
溜まった欲求から他人を性欲の捌け口としか認識せず、そして裏切られ、自尊心が揺らぐ。 
二人は異常で狂ってもいるが、人として悲しいくらい未熟で、不安定なのだ。

イチは虐められた過去への復讐心をいいように操られ、ジジイによって殺人マシーンとして利用される。
殺人は性的快楽へと繋がったし、他人に指図を受け、自分で何も考えなくて良い状態は心地良いものだった。なのにいつも辛くてやりきれないのは、イチの心に正常なものが確実に生きているからだ。しかしその正常さは自分自身を追い詰める刃でもあり、どうしたってイチは不安定な場所に立つしかない。その危うさと迷いが、イチを悲劇のヒーローたらしめている。全てがジジイの戦略通りだったとしても。

欲を言えば、イチの偏執的な部分をあらわすために、大山倍達の如くストイックに体を鍛える描写は欲しかったところだが、原作にくらべ少ない描写でその鋭利さを増したイチを見ていると、青臭く熱い血が騒ぎワクワクしっぱなしだった。いじめられっ子よ、かくあるべしという見本のような物語だ。
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