誤解を恐れずに言えば、キューブリックは映画が「ヘタ」だと思う。
親切すぎる映画というのは1つもいいことがないけれど、不親切すぎる映画というのもどうかと思う。
僕たちのような、多少なりとも訓練された映画ファンであっても難解すぎる作品なんかは特に。
それにキューブリックはテイクを重ねることで有名だけれど、それはこだわりというよりは自分で正解が分からないからだ。
100回くらい撮っておけば何とかなるだろう、女優もいい感じに狂ってきたしよかったよかった、みたいな感じで撮っている。
これは現場でダメ監督の烙印を押される典型例だ。
本作は映画史上最も難解な映画の1つとされている通り、不親切の極みのような作品。
試写で観たら「ナレーションつけ忘れてるよ?」って言っちゃうレベル。
例えば登場する会話が一切聞き取れなかったとしても、作品全体の理解という意味ではあまり変わらないのではないか。
いっそサイレント映画だった方がこちらも諦めがつくというもの。
(HALの歌う「デイジー・ベル」だけは聴きたいけれど)
小説版が神の視点で書かれているので、読んでいるとおおよそ意味はわかるのだけれど、もし映画だけでなんとかしようとしても無理だろう。
若い頃何度かチャレンジしたけれど、徒労に終わった。
しかし。
それを差し引いたとしても名作と言われる凄みが、本作にはある。
惚れ惚れするデザインと撮影構図はずっと見ていられるし、宇宙空間でのコントラストが強すぎる陰影は美しさを超えて怖い。
能天気なクラシックに乗せて延々と見せられる宇宙ステーションは、まるで下らない商品カットばかりのコマーシャルフィルムのようだけれど、全く見飽きるということがない。
宇宙船のコクピットやステーションのモニターに映るコンピュータグラフィックも細かくそれっぽくて、一体あの時代にどうやったんだと呆れてしまう。
美術と合わせて大きな魅力なのは、やっぱり特撮見本市のような撮影技法。
宇宙船のペンの浮遊から始まる「無重力表現遊び」は、見ていてとても刺激的だ。
ステーション内の大掛かりな仕掛けは、これはこう撮ってるんだろうなーなんて考えながら観ていると本当に楽しいけれど、その技法を発明する創造性と努力は(誰がしたにせよ)脅威だと思う。
たとえキューブリックが直接苦労したのではないにせよ、それをやらせるだけの狂気が彼にはあったのだから。
表現したいものがまずあって、それに合わせて撮り方を考える。
逆であってはならないのだろう。
遠慮も一切なし。
ノーランはインセプションやインターステラーで果敢にキューブリックに挑んでいたのだろうけれど、どちらの作品が優秀ということではなく、キューブリックに比べるとまだ優しい気がする。
ノーランは映画作りもうまいし。
「同種間殺し」という、今では人間だけではないと覆っている学説ではあるけれど、それと進化を結びつけて人間の存在を問う哲学性や、そこからさらに未来を仮説するテーマは、スピルバーグが受け継いだAIも同じだし、数多のSF作品が持つ普遍的なものだ。
人間だからこそ、同種間殺しが無くなるような、新たな進化をすることだってできるだろう。
モノリスの力を借りるまでもない。
美しい画面と、普遍性で永遠なテーマと、壮大で不穏な音響と、何度観ても理解が及ばない「飽きのこなさ」と、何よりにじみ出るキューブリックの狂気が、今までもこれからも歴史的な一作として存在させ続けるだろう。
それを今回、個人的には初めて映画館で、IMAXで観ることができたのはまさに僥倖というほかない。
仕事を完全に忘れて初日に取ったチケットが無駄になったけれど、やさぐれずにリベンジしてよかった。
この体験に一番ふさわしい表現をいろいろ考えたけど、やっぱり「やばい」かなあ。