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エストラパード街の河のレビュー・感想・評価

エストラパード街(1952年製作の映画)
3.2
話の骨格や緩いリズム感含めて『エドワールとキャロリーヌ』とほとんど同じ映画。『エドワールとキャロリーヌ』では貧しい音楽家であるエドワールが上流階級出身のキャロリーヌと夫婦であり、そこに第三の男として上流階級の男であるアランが現れる。それに対して、この映画ではキャロリーヌ役だった俳優がおそらく同じく上流階級出身だろう他の男と結婚していて、そこにエドワール役だった俳優が現れるという設定になっている。『エドワールとキャロリーヌ』におけるキャロリーヌの夫をエドワールからアランに入れ替えたものとなっている。

『エドワールとキャロリーヌ』は、貧しいエドワールが上流階級階級の人々の中に入っていく話だったが、この映画は上流階級出身のキャロリーヌが、貧しい人々の中に入っていく話となっている。夫婦が別れて元に戻るという設定も共通するので、この映画においてはエドワールの恋は成就しない。『エドワールとキャロリーヌ』は、夫婦が階級差による違いを無化する映画だったが、この映画では階級の違う二人が一瞬交差するだけで、同じ階級同士が夫婦になって終わる。

『エドワールとキャロリーヌ』上流階級の人々は規則的なリズムを持っていて、階級の違うエドワールとキャロリーヌはそれぞれ違うリズムを持つために、二人の関係性は何かズレたリズムの上に成り立っていた。それが映画のリズム感の基調になっていたため、常に何か不安定でスリリングだったが、この映画では、二人が同じ階級にあるためリズムが合っていて流麗。悪く言えば単調で、それがこの映画の基調となっているため飽きる。この映画ではエドワールを含めたエストラパード街の人々がリズムのズレを生み出す存在となり、上流階級出身の人々ばかりが出てくる前半は心地よいテンポが続き、エストラパード街の人々がでてくる後半でそれが揺らぐ。また、『エドワールとキャロリーヌ』ではリズムのズレによりピアニストであるエドワールの演奏が何度も中断される。それに対して、この映画ではカーレーサーである夫は規則的に周回し続ける。そして、その運転を止めることがない。

『エドワールとキャロリーヌ』では、おそらく互いに内心愛し合ってるように見える二人が表面上はずっと「離婚する」と言い続け、本当はどう思っているのかがわからない。この映画ではそれも逆転していて、お互い愛し合ってるように見えない二人が「愛している」と言う。

『エドワールとキャロリーヌ』は緩いテンポでありながらリズムや展開にぎこちなさがあるのが個人的に刺さり、この映画はそのぎこちなさが削ぎ落とされてしまっているため途中から飽きた。階級差がある夫婦、ない夫婦という反対のシチュエーションで二人がどうなるかを見ようとする実験のための映画なんだろうと思う。その人の生まれ、それに由来する気質のようなものをその人のリズム感で表現できてしまうのがすごい。貧しい人々はそれぞれ違ったリズムを持ち、上流階級の人々は均質なリズムを持つと設定している以上、この映画が退屈になるのは狙い通りなのかもしれない。この映画は『エドワールとキャロリーヌ』とは違う客層を狙った映画として作られているのかなと思った。
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