カラン

孤独な声のカランのレビュー・感想・評価

孤独な声(1978年製作の映画)
5.0
渋谷のシアター・イメージフォーラムにて。私はソクーロフをこの作品を観るまで何も知らなかったので、以下に、自分の勉強を兼ねて、この映画のいきさつを適当にまとめながら、感想を書いた。


ソクーロフ①

この『孤独な声』はソクーロフが1978年に大学卒業制作で撮った作品である。日本の常識でいけば、大学など行かなくとも、誰か立派な映画監督のもとで下積みをして、例えばタルコフスキーのような人のもとで、若手として監督をやれるチャンスを待てばいいという話になるのであろうが、旧ソ連ではそうではなかった。国家映画委員会という当局が認める大学で学び、卒業資格を得なければ、職業として映画監督にはなれない。しかし、この『孤独な声』は10年ほど日の目を見ることはなく、ゴルバチョフが1980年代の後半にペレストロイカを始め、民主化が進んだというよりも、むしろ社会主義体制の崩壊が進んだというべき状況になるまで、公開は見送られたようだ。従って、別の作品が卒業制作作品として学校には提出されることにもなった。

本作『孤独な声』は、ソ連当局から目を付けられ、公開禁止の状態にあった作家ブラトーノフの原作に含まれるエピソードを膨らませて出来ている。こうしたこともまた、この作品が抑圧を受ける理由の一つであったろう。また、ソクーロフは劇中で「革命は安泰だ。子供を産もう。」と妻のリューバに向かって主人公のニキータに言わせているが、いかんせん、ニキータはロシア革命の戦役によって精神が荒廃したためなのか、そもそも最初からインポテンツなのか、それとも、フロイトの言うエディプスコンプレックス(ニキータは父親にリューバと結婚する気はないのかと尋ねていた。つまり妻リューバは父と子が共に欲望の対象として争うことになるポジションにいる。)によって欲望の選択ができなくなったためなのか、いずれにしても妻リューバとの性関係は不毛なものであったのだ。

こういったことは旧ソ連の思想家や芸術家によってよく行われていた(有名どころではバフチンか)当局への「おもねり」(旧ソ連の作家たちはマルクス主義とはさしたる関係がなくとも「マルクス主義」や「革命」という言葉を文面に入れていた。)なのであるが、ニキータのような男に「革命は安泰だから、子供を産もう。」と言わせることでおもねってみても、旧ソ連の当局に対する忠誠と従順さを示すとは言い難く、むしろ逆なでしたのではないかと訝ってしまうありさまだ。そういう作品であるので、大学や当局がこの映画を廃棄処分の扱いにするという決定を下したのは、当然の成り行きであったのだろう。

そんな作品が、有り難いことに、生き延びた。本作の最後で献辞としてアンドレイ・タルコフスキーの名が出るが、タルコフスキーもまたこの偉大な作品を守るべく奔走した一人だった。ソクーロフ本人も廃棄処分命令が出た後で、保管所に忍び込み、なんとエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』とフィルムをすり替えたようだ。その際にアルミ缶で持ち出すのを諦め、袋に直接しまいこんで、難を逃れたという。なんという時代、なんという社会の荒波を乗り越えたことか。この映画はノイズやテープヒスで溢れているが、それはこういう逃亡劇の道行きでついた傷なのかもしれない。しかしそれがまた独特の深みにもなっているのかもしれない。トニー・スコットの”Man on fire”(たけり狂った男ぐらいの意味であろう。邦題は『マイボディーガード』)も、戦争とアル中で精神の砕けてしまった男を描きながら狂気の色彩を画面に映していた。他にもクリント・イーストウッドの『アメリカンスナイパー』も戦争に心が壊れてしまう主人公の映画として挙げることができるかもしれない。しかし、この映画は別格だ。この映画の狂ったような深みはソクーロフの生み出す独特の映画語法と、題材になった旧ソ連の絶望的なまでに貧しく非人間的な生活も関係しているのだろう。そして、たぶんここまで述べてきたようなフィルムが辿った紆余曲折も関係しているのだと思う。卒業制作の自作のフィルムを盗み出し、それをそのままゴミ袋にしまって傷つける覚悟で持ち出すなどという業を、現代日本の誰のどんな作品であれば背負うことになるというのか? 思えば、この作品に出会えたのは奇跡だ。ソクーロフの存在を教えてくれたレビュアーの人には、とにかく感謝したい。

この映画の内容については、また別の機会にしたい。というのは、すやすや気持ちのよさそうな寝息がそこかしこから聞こえてくる小さな劇場で、私はかなり集中していたが(この映画の2時間後、小粋なトラットリアでピザとイタリアンビールを飲んだ後、再度劇場に挑んだ『エルミタージュ幻想』は7割寝た。楽しかった(爆))、画面の美しさにかなりの時間見とれていて、字幕をあまり追えなかったからだ。以下に簡単に劇場で感じたことをまとめておく。

独特の間合いを持つカメラである。ミレーよりも近い距離で人物を見る。フェルメールやカラヴァッジョのような中間的な距離感で人物に焦点があたり、そこにスーパーインポーズで写真や記録用のフィルムみたいなものが唐突に差し込まれる。白いカーテンが揺れ、非人間的な労働、蒼い闇のなかの森、古い誰のものか知れない人物の写真、フェルメール的な暗室に差し込む光のもとでの人物描写、マグマのような溶けた鉄、カラバッジョの『悔悛するマグダラのマリア』のような暖炉の炎でオレンジに色づいた人物描写、屠殺され目を悪魔のようにむいた牛、といった調子だ。そしてさらに、印象だけで語って恐縮だが、(ソニック・ユースがジャケ写で使って有名になった)ゲルハルト・リヒターが生み出した、あの靄(もや)、アウラ、つまり不可視を可視化するために生み出したタブローのような、ピンボケまでもが画面に出現する。この乱雑なイメージのキマイラ的な合成は、いったい何に捧げられているのか?死が生の領域の一部となり(「死は引っ越しみたいなものでしょう」)、生が意味をなくし、むしろ非人間的な生活に落ちていき、悪夢のように棒でつつかれて現実味のない死体からの《私》の覚醒と、未遂で終わるが妻の後追い自殺が起こってしまう男の身の上の話だ。欲望の指針となるはずの父はあまりに貧弱で、その父と抑圧と暴力の温床としての官僚や国家権力との区別がつかなくなり、自覚できないほど人生を見失い、性的に不能になってしまう男が主人公であるのは間違いない。病的なまでにストーリーが寸断され粉砕されているが、それがこの映画における人間の在り方であろうとなかろうと、ストーリーが意味不明であろうとなかろうと、こういう一切合切はソクーロフ自身が自主的に取った方法論なのであろうとなかろうと、この映画は奇跡的に生き延び、私たちに届いた。

この映画の美しさは、どんな偶然が重なって出来たものにせよ、奇跡的である。この映画の晦渋さは国家権力による検閲に対するネガティヴな関係の所産なのかもしれないではないか。予算も満足に与えられずアマチュアの役者を揃えて、1人の大学生が苦し紛れに作ったのかもしれないではないか。しかし、物語の物語性を暴力的に破壊する脱ナルシシズムの志向と、テクストを乱雑に配置する映像の美学に、恍惚とした気持ちになるのは事実だ。



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