JAmmyWAng

あなたのためにのJAmmyWAngのネタバレレビュー・内容・結末

あなたのために(2000年製作の映画)
2.0

このレビューはネタバレを含みます

日本の郊外にイオンがあるように、アメリカの郊外にはウォルマートがある。

ウォルマートは、戦略的に郊外への大規模小売店の出店を推し進める事で、地域における消費活動を半ば独占しながら、さらに店舗を拡大してきたという経営手法的なバックグラウンドがある。要するにウォルマートが郊外を象徴する存在となっているのは、そうしたビジネスにおける意図的な背景があるというワケです。

昨今はオンライン・ショッピングなどの浸透によって、実店舗の撤退だとか既存の業態を変化させたりだとか、それこそトランプ政権になってどーのこーのとかまあ色々やってるワケなんだけど、2000年に公開されたこの映画におけるウォルマートは、まさに郊外型大規模小売店というティピカルでシンボリックな存在として、オクラホマ州セコイア郡に君臨しているのであります。

言うまでもなく、地域住人にとって、ウォルマートは消費活動における空間的な中心である。消費という行為によって、生活における動線は、ウォルマートを中心に形成されている、と言っても何ら言い過ぎではないでしょう。そんな「消費」の中心的空間に、妊娠したナタリー・ポートマンは一人置き去りにされてしまうと。

そうして彼女はウォルマートで生活し始めてしまうんだけど、その行為はウォルマートの象徴的な機能である「消費」を突き抜けて、彼女はそこにおいて「生活」という根源的な概念を浮き彫りにしていくワケです。つまり「ウォルマート(=消費)=生活」であると。さらにはウォルマート内で出産までもが行われてしまう事により、「生活の空間」は「生の空間」としての性質をも露呈するのであります。

要するに、ウォルマートは「消費の空間」から「生活の空間」へ、そして「生命の空間」へとその機能を深化させているのであって、ナタリー・ポートマンはウォルマートに「生」を見出し、そしてそれを周囲に示す存在として立ち回るのである。
出産以降、ウォルマートが登場する事はほとんど無くなってしまうんだけど、これは「消費の中心(=ウォルマート)」が「生の中心(=ナタリー・ポートマン)」に、地域における空間的中心としての機能を単にスライドさせているからではないのかと思う。何故ならば、ウォルマートによって形成された生活動線上の人間関係を、ナタリー・ポートマンが引き継ぐ形でドラマが描写されていくのだから。そして、ウォルマートはトルネードによって物理的に崩壊し、映画における役割を果たし終えるのだというワケです。

この映画がスゴいのは、そうした郊外地域における人間関係の動線が、外界によってことごとく脅かされる点にあると思うのです。子供を誘拐するのはミシシッピ州から訪れた者達であるし、地元を捨てた母親も、結局は娘から金を奪って再び去っていく。
セコイア郡の外界は、ことごとく災厄をもたらす異界であるかの如く存在している。ナタリー・ポートマンを捨ててラスベガスへと旅立った彼氏は勿論ヒドいヤツだけど、彼に至ってはなんと両脚を失う形でその代償を支払うワケである。なるほど。This is YARISUGIじゃね?

本作における「ウォルマート=ナタリー・ポートマン」を中心とした地域社会は、どこか心が温まるようでいて、一方では無自覚に閉じられている。それは最早ある意味でゲーテッド・コミュニティのようでもあり、伽藍(がらん)方式における統制されたデザインによって彩られた組織体のようでもある。ちょうどウォルマートが品揃えやレイアウトを集権的に管理しているように。

本作の特徴は、こうした郊外ウォルマート型のコミュニティ図式に対する、その在り方についての徹底した疑念の無さであると思う。それは物凄く土着的でリアルな感覚なのだと思うけど、日本の郊外で生まれ育った僕からすれば、個人的な意見である事は百も承知で、That's why I hate itとしか言いようがない感覚なのでござるよtbh。

詰まるところ、郊外という空間における人間関係の動線の類似性と、その内側における当事者の無自覚性は、日本だろうがアメリカだろうが、ファスト風土のように広がっていたのだなあと。そうした文脈においては個人的に面白さを見出せたけど、映画としては特に面白くなかったッスね。

Save money live better. セーブして貯めた銭コアで、東京でベコでも買うのは如何でしょうか(比喩です☆)
JAmmyWAng

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